元豊の改革
元豊の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 22:00 UTC 版)
王安石が表舞台をおり、神宗が親政をしいた1080年(元豊3年)9月より元豊の改革と呼ばれる官制改革が行われた。前述のとおり、宋では律令体制と使職の二重体制が布かれており、無駄な部分の多いこの官制に対する改革が行われた。この改革の中で、新法と最も関係の深いのものといえるは、財政担当である三司と司農寺の統合があげられる。 唐律令制において財政を担当するのは戸部であるが、律令制崩壊後に登場した使職度支使・塩鉄使などと戸部が合体して出来たのが三司である。三司の権限は財政全般にわたり、宰相ですらそれに口出しすることは出来なかった。しかし新法によって新しく生まれた業務は司農寺の管轄する所であり、これは宰相の直轄であった。 これを元豊の改革では戸部の下に収め、戸部の左曹が元の三司が管轄していた財政を司り、右曹が元の司農寺が管轄していた財政を司る。戸部の長官である戸部尚書は左曹を管轄するが、右曹は宰相が直接管轄する。
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元豊の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:21 UTC 版)
詳細は「元豊の改革」を参照 新法による改革を経て財政の充実を見た神宗親政期の元豊年間に官制の大幅な改革が行われた。 主な変更点を挙げると 三司の整理。経済に関するほとんど全てを司る三司は非常に巨大かつ複雑な機構と化していたが、王安石は制置三司条例司という部署を作って三司の改革に乗り出し、に三司の権限を司農寺・軍器監・将作監などの他部署に吸収させ、三司は単に経済関連の文書業務を担当するものとした。元豊時にはこの残った三司を戸部に吸収させる。 名目的には中書・門下・尚書の三省を建て、それぞれの長官はそれぞれ中書令・門下侍中・尚書令であるが、これらの役職には誰も任命されず、尚書左僕射に門下侍郎(門下省副長官)を兼任させて尚書左僕射兼門下侍郎、尚書右僕射に中書侍郎(中書省副長官)を兼任させて尚書右僕射兼中書侍郎とそれぞれ称して宰相とした。また参知政事の代わりに尚書左丞・尚書右丞を設けて補佐とした。 唐制六部を形骸から実際の権限を持つものに復活させる。中書門下や枢密院の持つ人事権は吏部に、審刑院などの持つ裁判権は刑部にそれぞれ吸収させた。 それまで同じ階梯でも複数あった寄禄官を一本化し、一つの階梯に一つの寄禄官が対応するようにした。
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