伊豆卜部氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 17:20 UTC 版)
平安時代前期の卜部平麻呂(神祇権大佑)を実質的な祖とするが、平麻呂以前は明確ではない。平麻呂を大中臣清麻呂の孫にあたる智治麻呂の子とする系図もあるが、後世の仮冒とされる。三嶋大社に神官として仕えていた氏族であるという説や、天児屋根命の後裔である五十手命を祖として伊豆卜部氏を武蔵卜部氏と同族で、中臣氏族の一流とする系図がある。姓は宿禰であったが、応安8年/文中4年(1375年)に吉田兼煕が朝臣姓に改姓。 平麻呂の子孫は後に吉田社系と平野社系に分かれ、代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務める。 吉田社の系統は冷泉のち室町を家名とするが、永和4年/天授4年(1378年)に足利義満が室町第に移ったことに伴い、吉田兼煕がそれまで名乗っていた室町を憚って、社務を務める吉田に家名を改めた。江戸時代には堂上家(半家)として三家(吉田家・萩原家・錦織家)を数えた。平野社の系統は江戸時代に猪熊家のち藤井家を称し、堂上家(半家)に列した。 なお、吉田社系の氏人に『徒然草』の作者吉田兼好がいるが、本来は「卜部兼好」が正しい。兼好は吉田に家名を改めた兼煕より前の時代の人物であり、「吉田兼好」の名は鎌倉時代および南北朝時代の史料にはまったく見られない。更に中世和歌史研究者小川剛生により、今日伝わる兼好の系譜自体が吉田神道の創始者でもある吉田兼倶による捏造で、実際の兼好はどの系統の卜部氏の出自であるかは(そもそも卜部氏であったのかも)分からないとの指摘がされている。 伊豆卜部氏 系図 実線は実子、点線(縦)は養子。※『宮廷公家系図集覧』536頁による。 御食子 國子大連 鎌足〔藤原氏〕 國足 意美麿 清麿 東人 卜部諸魚 今麿 治麿 常麿 平麻呂 岡良 豊宗 輔道 好真 頼基 兼延 兼忠 兼親 兼国〔藤井家〕 兼政 兼俊 兼康 兼貞 兼茂 兼名 兼直 兼顕 兼藤 卜部兼好(吉田兼好) 兼益 兼夏 兼豊 兼成 兼繁 吉田兼煕〔吉田家〕 兼有 兼祐
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