交渉と背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:36 UTC 版)
「琉球貿易」も参照 1588年、時の天下人豊臣秀吉は謁見した島津義弘に対し、天下統一するも琉球だけが臣従の例を尽くしておらず、このままでは兵を発して琉球を滅ぼす事になると、これを直接的に恫喝する「上意」を発したと言う。その旨は1588年の島津義久から尚永王の書簡に著された。 秀吉はそもそも途絶している日明貿易の再開交渉が難航し拗れた事に業を煮やし明国の征服を決意したとされており、そのためにまず朝鮮を討つべしと文禄・慶長の役(朝鮮役)を企てた。1591年には、朝鮮出兵に際し薩摩と共に軍役負担を琉球に命じ、応じなければまず琉球から攻める等と、秀吉からの書簡で直接かつ明確に恫喝されたのである。これは結局、軍役負担は島津氏が肩代わりし、さらに代替として求められた兵糧米の供出は、王府の苦しい台所事情もあってか要求の半分に留まり、島津に更に借りを作る(つけ入るすきを与える)ことになった。更に窮した王府が明国福建省の役人に窮状を訴え出るも、特に色よい返事はなくただ秀吉を説得せよとの回答だけであった。 実情としては、島津氏が豊臣秀吉から徳川家康・秀忠までの治世における多大な軍役負担、賦役負担のため財政難に喘いでおり立て直しのために琉球王国から奄美を割譲させるとともに琉球貿易の独占的利権を得ようとしており、「嘉吉附庸説」などを持ち出して王国への圧力を強めていた。さらに九州南部の薩摩国、大隅国などの傘下の国人領主に対する貿易統制引き締めや貿易港直轄化に乗り出し体制を整え、王国に対しても日琉間の貿易統制を命じるが、王府側はこれに黙殺を続けたために両者の関係は次第に敵対関係に転じていった。 更に徳川の治世に至ってもなお、朝鮮役後の日明関係修復の使節仲介などを巡って軋轢を生じ、終には島津氏からの最後通牒も王府は黙殺したため、家康・秀忠の許しを得て奄美・琉球侵攻へと乗り出す事になった。なお、最後通牒を含む侵攻直前の遣り取りでは、島津側は三司官(謝名ら)を名指しで非難している。
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