五郎山古墳とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 建物・施設 > 遺跡 > 古墳 > 日本の古墳 > 五郎山古墳の意味・解説 

五郎山古墳

名称: 五郎山古墳
ふりがな ごろうやまこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 福岡県
市区町村 筑紫野市原田
管理団体
指定年月日 1949.07.13(昭和24.07.13)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 五郎山称せられる高燥丘陵上に営まれ円墳で経約120尺高さ約18尺を有する。ほぼ南南西面に開口して横穴石室存する石室割石によつて積築され羨道玄室との2部にわかれ更に玄室前室後室とより成つていて複室構造示している。
奥室の長さ14尺5寸、幅奥壁にて約9尺6寸、高さ約12尺7寸、前室長さ約5尺9寸、幅約6尺6寸高さ8尺の羨道長さ現在約12尺幅約3尺高さ5尺を有する。奥室の奥壁及び左右両側壁、前室後壁等に黒、赤、緑の3色をもつて騎馬像をはじめ、人物画、舟、靱、弓及び重圏文等が画かれ我国裝飾古墳として顯著なのである昭和22年に偶然発見され内部から須惠器等が検出された。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  二本松城跡  五所川原須恵器窯跡  五色塚  五郎山古墳  五領ヶ台貝塚  井寺古墳  井戸尻遺跡

五郎山古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/27 13:25 UTC 版)

五郎山古墳

五郎山古墳
所在地 福岡県筑紫野市原田
位置 北緯33度27分07.0秒 東経130度32分44.0秒 / 北緯33.451944度 東経130.545556度 / 33.451944; 130.545556座標: 北緯33度27分07.0秒 東経130度32分44.0秒 / 北緯33.451944度 東経130.545556度 / 33.451944; 130.545556
形状 円墳
規模 径約32m、高さ約5.5m
埋葬施設 横穴式石室
出土品 須恵器
築造時期 6世紀後半
被葬者 不明
史跡 国の史跡
特記事項 装飾古墳
地図
五郎山古墳
テンプレートを表示
五郎山古墳玄室奥室奥壁の壁画(霊屋と思われる建物)

五郎山古墳(ごろうやまこふん)は、福岡県筑紫野市原田にある古墳時代後期(6世紀後半)の装飾古墳[1][2]。直径35mほどの円墳で、装飾壁画がある[3]1949年(昭和24年)7月13日に国の史跡に指定されている[4]

概要

JR原田(はるだ)駅東方の丘陵上にある円墳で、装飾壁画を有する、いわゆる装飾古墳の一つである。1947年、盗掘坑の陥没によって古墳の存在が確認され、同年、福岡県教育委員会により調査が実施された。過去の盗掘により副葬品は大方失われていたが、須恵器、玉類などが出土した[5][6]

墳丘の径は約32メートル。埋葬施設は、玄室が前後の2室からなる複室式の横穴式石室で、南西に開口する。石室の全長11.2メートル。玄室の後室は幅3メートル、奥行4.5メートル、高さ4メートルの規模である。6世紀後半の築造とみられる[5][6]

2001年(平成13年)には五郎山古墳館が開館し、壁画を再現した、実物大の精巧な石室模型が設置された。

壁画

後室の奥壁と左右の側壁に、赤、緑、黒の3色の顔料を用いた壁画がある[7]。いわゆる装飾古墳の壁画には、同心円などの幾何学文様を描いたものが多いなかで、本古墳の壁画は人物、動物、器物などの具象的モチーフを中心に描く点が特色である[5]

後室奥壁の腰石(最下部の石)には中央下部に舟を描き、画面右方には、同心円文と、武具である、靫(ゆき)、(とも)を描く。靫は矢を入れて背負う箱状のもの、鞆は弓射の際、弓弦から手を護るために左手首に着けるものである。画面左方には、霊屋と思われる建物とそれに向かって祈る人物、弓に矢をつがえた人物、馬上の人物とそれを先導する犬らしき動物などが描かれている。中央上部に大きく描かれた「Y」字状のものは、従来「鳥」とされてきたが、考古学者の甲元眞之はこれを蓋(きぬがさ)の表現か蕨手文ではないかとしている。腰石の上方にある石には、馬上で矢を射る人物、片手を上げて踊っているらしき人物、同心円文などを描く。このほか、奥室左右の側壁にはそれぞれ舟を描く(向かって左壁は1艘、右壁は2艘)[8]

壁画の解釈

舟を死者の魂の担い手とするのが、弥生時代以来の伝統的な観念であった。本古墳の奥室左右壁に描かれた舟は、棺と思われる箱状の物を乗せている。弓、靫、鞆などの武具は、辟邪(へきじゃ)、すなわち悪霊を寄せ付けない機能をもつものである。また、同心円文は日月星辰をあらわし、他界を象徴するものである[9]

本古墳壁画には馬が描かれているが、考古学者の白石太一郎は馬も舟同様に魂の乗り物であると指摘した。甲元眞之は、装飾古墳において、葬送儀礼との関連で馬が描かれるのは6世紀後半のごく限られた時期であることを指摘し、「馬は魂の乗り物」という、中国北方地域にみられる葬送観念が日本に持ち込まれたものだとする。甲元は、霊屋に祈る人物の存在も合わせ、本古墳壁画は一種の葬送儀礼を表したものだとしている[10]

脚注

  1. ^ 五郎山古墳”. www.city.chikushino.fukuoka.jp. 2020年10月29日閲覧。
  2. ^ 五郎山古墳(五郎山古墳館)|ご来福スポット|「ご来福」しよう”. 「ご来福」しよう. 2020年10月29日閲覧。
  3. ^ 五郎山古墳(国史跡)[原田]”. www.city.chikushino.fukuoka.jp. 2020年10月29日閲覧。
  4. ^ 五郎山古墳”. 文化遺産データベース(文化遺産オンライン). 2020年11月5日閲覧。
  5. ^ a b c 井上裕弘「五郎山古墳」『図説日本の史跡3 原始3』、同朋舎出版、1991、p.187
  6. ^ a b 五郎山古墳”. 九州国立博物館. 2021年2月27日閲覧。
  7. ^ 下中邦彦 編『風土記日本1 九州・沖縄篇』平凡社、1960年9月15日、39頁。 
  8. ^ 甲元眞之 1998, p. 168,169.
  9. ^ 甲元眞之 1998, p. 165,168,170,171.
  10. ^ 甲元眞之 1998, p. 168,174,180,181.

参考文献

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  五郎山古墳のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五郎山古墳」の関連用語

五郎山古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五郎山古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの五郎山古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS