二度目の首相
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1939年、あまりに親ナチス・ドイツ的だったイムレーディ・ベーラ首相がホルティによって解任され、2月16日にテレキが18年ぶりに首相に任命された。テレキはナチズムに批判的である一方、ハンガリーの領土回復には熱心であったための人選であった。テレキは国境を接しているドイツと敵対することは出来ないことを認識し、ドイツの国力を利用して領土回復を図る一方で、イギリスやフランスとも良好な関係を保つという極めて困難な政治路線を取ることになった。ドイツのポーランド侵攻にあたっては、親ドイツ的な政策を継続するとドイツに伝える一方で、参戦については拒否する書簡を送った。ヒトラーは激怒し、結局ハンガリー政府はこの書簡を撤回することになった。しかしイギリス外相ハリファックス伯に表明はしないが中立政策をとることを伝えるなど、英仏との対立を避ける動きも続けている。実際に参戦が回避され、軍事的支援も行われなかったことが判明すると、英仏はハンガリーに対する輸出制限を緩めるなどしている。またドイツ軍に敗れ亡命してきたポーランド軍民の保護も行い、4万から5万のポーランド人がハンガリーを経由して西欧に脱出した。 一方で対ルーマニア政策においてはイタリアに対してルーマニア侵攻への援助を依頼している。しかしドイツが侵攻しないように釘を刺すなどしている。この動きは1940年7月の第二次ウィーン裁定によってドイツに仲裁され、北部トランシルヴァニアを獲得したものの、ドイツへの傾斜はより強いものとなった。テレキはイタリアとの関係を強めることでドイツの影響力を緩和するようもくろんだが、折からのドイツの快進撃は、国内における親独勢力矢十字党の伸張をもたらすことになった。テレキは一時亡命政府の樹立も考え、駐米公使に資金を送付している。また11月20日の三国同盟への参加は、イギリスによって「ハンガリーを事実上の敵国と見なす」というイギリスの警告を招くことになった。12月12日にはユーゴスラビアとの間で領国の領土要求を放棄する永久友好条約を結んでいる。 ナチズムに批判的であったテレキであるが、ユダヤ人たちからは非難されている。テレキの在任中にはユダヤ人学生制限法などの反ユダヤ立法が成立しており、反ユダヤ主義者であるという認定も行われている。法案自体はイムレーディ時代に準備されたものであるが、「私が私案を出せば、現法案よりも厳格なものになったであろう」と述べ、自らの人種主義思想については「人種と血統に基づく外国のイデオロギーに影響された」ものではなく、自分自身の科学的信念にもとづくものであると議会で言明している。
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