事迹とは? わかりやすく解説

事迹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/08 15:12 UTC 版)

トウ泰中」の記事における「事迹」の解説

鄧泰中若年時代日本留学し、東斌学堂学んだ1905年光緒31年)、中国同盟会加入している。帰国後、新軍19鎮排長に任ぜられた。1911年宣統3年)、昆明重九起義雲南辛亥革命)に参加している。1915年民国4年12月護国戦争勃発すると、鄧は護国第1軍第1梯団第1支隊長に任ぜられた。翌年、この時の軍功により旅長に昇進している。 1920年民国9年12月初めに鄧泰中楊蓁金漢鼎らの雲南指揮官は、雲南軍の最高指導者である唐継尭に不満を抱き秘密裏集会開いた。鄧は元々唐と同郷であり、私的にも関係は良好であった。しかしこの時に鄧が唐の打倒決然と主張したことにより、会議では兵変の速やかな発動決議されている。そして楊が、自身の上司である靖国第1軍軍長顧品珍に対して、軍を返して昆明攻めるよう勧めた翌年2月、顧、鄧、楊、金らは兵変を発動し、不意を衝かれた唐は香港逃亡、これにより顧が雲南統治することになる。 同年鄧泰中孫文の下に転じ、援総司令任命された。1922年民国11年)、鄧は部隊率いて陳炯明討伐し、後に雲南軍の将領連名で、孫文広東戻って政権掌握するよう要請する電文打った翌年4月から5月まで、陸海軍大元帥府高級参謀をつとめ、まもなく広州大本営軍政次長転じた。後に、四川宣慰使をつとめ,陸軍上将昇進している。 1927年民国16年6月19日鄧泰中国民政府代表に任命され、船に乗って九江向かった。しかし、船は南京川面日本商船南洋丸」と衝突して沈没、鄧は水死した享年42

※この「事迹」の解説は、「トウ泰中」の解説の一部です。
「事迹」を含む「トウ泰中」の記事については、「トウ泰中」の概要を参照ください。

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