事前の機動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 06:38 UTC 版)
「ベルヘン・オプ・ゾーム攻囲戦 (1747年)」の記事における「事前の機動」の解説
ラウフフェルトの戦いに勝利した後、フランス元帥モーリス・ド・サックスは攻城戦の名手 、レーヴェンダール中将率いる30,000名の軍団をベルヘン・オプ・ゾームの攻囲に差し向けた。サックス元帥は、数的劣勢に置かれた敵軍が要塞化された二つの都市を、同時に適切に守ることはできないだろうと算段したのである。サックス元帥の軍団の脅威に直面したマーストリヒトを守る必要に駆られ、イギリス軍司令官、カンバーランド公とオーストリア軍司令官、バチャーニ(英語版)のどちらもベルヘン・オプ・ゾームの救援には向かえないと考えた。ネーデルラント軍にとり、これは必要な時に同盟軍が来援しないことの証となった一方、友軍であるイギリス軍は、この戦争においてより大きな努力を求めるネーデルラントの要求を不合理と考えていた。なぜならネーデルラントは、フランスに対し公的に宣戦していなかったからである。 ベルヘン・オプ・ゾームは約5,000名の住民と86歳の頑健な総督、クロンストレーム(オランダ語版)大将指揮下の守備隊3,000名を擁する要塞都市であった。要塞の防壁は、約3マイルにわたって5か所の角堡(英語版)に援護された10か所の稜堡に囲まれていた。その間には石造の小月堡(英語版)に援護された21か所のラヴリンがあった。周囲のほとんどは湿地であった。またムーアモント、ピンセン、ローファースの三つの砦に守られ、塹壕に囲まれたローゼンダールの宿営地と、北東から町へと繋がる塹壕線はザクセン=ヒルトブルクハウゼン公子ルートヴィヒ・フリードリヒ(英語版)元帥指揮下の歩兵20個大隊と騎兵14個中隊が保持しており、守備隊の強化や救援が可能であった。これらの防衛線や、西側のより小規模な防衛線によってベルヘン・オプ・ゾームは完全には包囲できない町であった。さらに海抜の低さを利用し、防衛線に面した広大な一帯はネーデルラント軍が様々な水門や運河をもって水没させており、そこからのフランス軍のいかなる接近をも阻んでいた。この要塞はネーデルラントの偉大な技術者、メンノ・フォン・クーホルンの代表建築である。そして難攻不落にしてブラバントでも最も強力な要塞と考えられていた。ベルヘン・オプ・ゾームはこれに先立つ二度の攻囲戦に耐え抜いており、一度目は1588年(英語版)、二度目は1622年(英語版)のことであった。また、それぞれ砦に守られた航行可能な運河から、船で食料や弾薬の補給を受けることも可能であった。 ベルヘン・オプ・ゾームの守備隊と補給は充実していたので、フランス軍による攻囲は低地諸邦の警戒を即座に招くものではなかった 。要塞は海に通じており、オランダ海軍はフランス側の深刻な妨害もなく要塞に補給を実施した。フランス側は攻囲軍として周辺の一帯のほとんどを統制下に置いており、同様に順調な補給と増強を受ける。しかし、連合軍は付近にヴァルデック=ピュルモント侯カール・アウグスト(英語版)率いる軍団を配しており、フランス軍の補給線を継続的に脅かしていた。
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