中央銀行設立への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「中央銀行設立への道」の解説
欧州各国と米国の銀行制度の大きな違いは、欧州には通貨の供給量を管理する中央銀行が存在し、米国には存在しないことだった。中央銀行がないため米国経済が脆弱であるという考えは、特別新しい考えというわけではなかった。1906年1月、クーン・ローブ商会のシニアパートナーであるジェイコブ・シフは、ニューヨーク商工会議所でのスピーチで「もし我が国の通貨制度が改められなければ、遅かれ早かれ、これまでの恐慌があたかも児戯にみえるようなとてつもない恐慌に見舞われるだろう」と述べている。 恐慌の影響がメキシコ革命に及んでいた1910年11月、ネルソン・オルドリッチは金融政策と銀行制度について話し合うためジョージア州の海岸沿いのジキル島にある「ジキル島クラブ(英語版)」で秘密会議を開いた。オルドリッチの他、エイブラム・ピアット・アンドリュー(英語版)(連邦財務次官補)、ポール・ウォーバーグ(ドイツ語版、英語版)(クーン・ローブ商会のパートナー)、フランク・ヴァンダーリップ(英語版)(ナショナル・シティ銀行頭取。スティルマンの後継者)、ヘンリー・デイビソン(英語版)(JPモルガン商会のパートナー)、チャールズ・ノートン(JPモルガンのニューヨーク・ファースト・ナショナル銀行頭取)、ベンジャミン・ストロング(バンカーズ・トラスト社長。JPモルガンの代理)が会議に出席し、「国立準備銀行」構想を練り上げた。 後にフォーブス誌を創刊するB・C・フォーブスは、後年この秘密会合について次のように記している。 わが国最大の銀行家の一団が、夜陰に乗じてひそかに専用鉄道車両でニューヨークを抜け出したと想像していただきたい。彼らはひそやかにはるか南へと急ぎ、謎めいたランチに乗船して、少数の使用人しかいない人里はなれた島に人目をしのんで上陸し、そこでまるまる1週間、使用人に素性がばれて、この奇妙にしてアメリカ金融史上最大級の極秘会合が世間に知れてはいけないと、お互い誰の名前も口にせずに過ごした。これは絵空事ではない。わが国の新しい通貨制度の基礎となった有名なオルドリッチの通貨レポートがどのようにして書かれたか、その内幕をわたしは初めて世界に明らかにしようとしているのである。 国家金融委員会の最終報告は1911年1月11日に発表された。それから2年にもわたる議論の末、1913年12月23日に議会はロバート・オーウェン(英語版)とカーター・グラスの提出したオーウェン・グラス法(英語版)案を可決、ウッドロウ・ウィルソン大統領は直ちに同法に署名し、連邦準備制度は即日成立した。初代議長にはチャールズ・ハムリンが就任、一方連邦公開市場委員会の副委員長を兼務するニューヨーク連邦準備銀行総裁には、モルガンの腹心ベンジャミン・ストロングが任命された。
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