中国での反響など
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斗南の『支那分割の運命』の中国語翻訳版については、斗南自身により漢訳されたものは翌1913年(大正2年)1月に刊行されたが、それより少し前の1912年(大正元年)12月15日、すでに中国において北洋法政学界(北洋法政専門学堂の第一期生を中心に結成された会)から『支那分割之運命駁議』と題する、「駁議」(反論)を付け加えた漢訳本がいち早く刊行されていた。 斗南の本は日本の中国大陸侵略の野心を煽るものとして中国人に受け取られたようで、在日中国人留学生が最初に烈火の如く憤慨し、日本人の手による著書『支那分割の運命』の存在を本国に知らせたという。斗南の論旨は中国で大きな反響を呼び、「日本の狂熱的侵略主義者」が論じる中国人批判だとされて、中国共産党系の李大釗などが反論を展開した。 それらの猛反発には、明治天皇を崇拝する小さな島国の日本人・斗南に、共和の民国を建設した中国人をあれこれ言う資格はない、といった言もあり、日本人が中国に対し「同文同種」「唇歯輔車」の国という甘言を述べても下心があると受け取られ、中国侵略の意図を秘めた日本人による悪意の罵詈雑言とみなす反論もあった。 『斗南先生』の第一章の中で中島敦は、〈そんな売れない本から印税がはいる筈はなかつた〉と書いているが、日本国内においての『支那分割の運命』もそれなりに売れた様子で、一定の読者層からの高い支持を受けて初版から1年も経たないうちに再版された。斗南の弟子だった増井経夫によれば、斗南の『支那分割の運命』は「当時流行した中国分割論」であったが秀抜な評論で、名著の誉れが高かった」という。 しかしながら、斗南の著書の後に発行された酒巻貞一郎の『支那分割論』や、内藤湖南の『支那論』のように長きに渡って後世に伝わる本にまではならなかった。斗南はその後も晩年にいたるまで中国問題に関わり、数々の論説を政教社の雑誌『日本及日本人』に寄稿しつつ、中国大陸にも何度も渡り羅振玉や汪康年らと意見交換などしていた。
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