上陸作戦の始まりとH部隊の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:20 UTC 版)
「H部隊」の記事における「上陸作戦の始まりとH部隊の終わり」の解説
1942年の一時期、H部隊は実際には存在してはいなかった。5月に入り、H部隊からマダガスカル島のディエゴ・スアレスに対する攻撃に兵力を抽出されたためである。この作戦は成功を収めたものの、重要な時期にイギリスの海軍力を無駄に使うものだという批判が多かった。(マダガスカルの戦い参照) 1942年11月は、戦いのターニングポイントとなる月だった。トーチ作戦が実行され、イギリス第一軍を始めとする米英軍が、モロッコおよびアルジェリアに上陸した。H部隊はこの上陸部隊を援護するために動員された。上陸部隊にとっての脅威はイタリア艦隊とヴィシー・フランス軍であったが、目立った抵抗を行ったのはヴィシー・フランス軍だけであった。ヴィシー・フランス軍はカサブランカにおいて、上陸部隊を支援するアメリカ艦隊と砲火を交えた。 この北アフリカにおける大規模な作戦の最終的な狙いは、チュニジアを枢軸国の勢力圏から切り離すことであった。この狙いは最終的に達成され、25万人を超える枢軸軍兵士が連合軍第18軍集団に降伏した。25万人といえば、スターリングラード攻防戦での降伏者数に等しい数である。H部隊はこの戦いを通して、陸上部隊に厳重な援護を提供した。 さらなる2つの上陸作戦において、H部隊は上陸部隊をイタリア艦隊から守るために援護に当たった。1943年7月に行われた、シチリア島攻略作戦であるハスキー作戦と、同年9月のイタリア本土サレルノへの上陸作戦、アヴァランチ作戦がそれである。戦場が本土に移った結果、イタリア政府は降伏した。 残存したイタリア艦隊は、戦艦ローマがドイツ軍の無線誘導爆弾フリッツXの攻撃を受け艦隊司令長官とともに沈んだ(「ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦」参照)他は、大部分がドイツ軍の接収を免れた。H部隊は、サルデーニャ島近海でイタリア艦隊と落ちあい、マルタまでこれを護衛した。英地中海艦隊司令長官のカニンガム提督は、海軍本部に次のような伝統的な信号を発信した。 "Be pleased to inform their Lordships that the Italian fleet lies under the guns of the fortress at Malta."(訳注:直訳すると「イタリア艦隊がマルタの砦の砲列の下にあり、我が支配下にあることをお知らせすることを喜ばれたし」というほどの意か) イタリア艦隊の降伏によって、地中海に主力艦を含む艦隊を維持する必要はなくなった。H部隊の戦艦や航空母艦は本国艦隊や東洋艦隊に配属替えとなり、司令部も解散した。地中海の海軍作戦は、より小型で軽快な艦艇による部隊が行うことになったのである。
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