三強時代
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1984年(昭和59年)第16回オープントーナメント全日本空手道選手権大会には参戦せず、カメラマンとして会場にいた増田は、ファインダーを通して選手が懸命に戦う姿を見て、「空手も芸術の一つではないか」と捉えながら、試合をしたいという欲求も出ていた。写真の専門学校は最後まで通うが、競技に復帰する事を決意し、翌年の第17回全日本選手権に備え、練習を再開した。首都圏交流試合に参加して試合勘を取り戻すなど、専門学校に通う傍ら、少ない練習時間を有効に使って調整していた。 1985年(昭和60年)の第17回全日本選手権に復帰参戦。松井章圭と同様に第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会以来であった。増田はCブロックから勝ち上がっていった。4回戦の八巻建志では突きをあまり出さず、いきなり左下段回し蹴りの連打につぐ連打で技ありを奪い、続いて再び左下段回し蹴りを八巻の右足に連打して技ありをまた奪い、時間にして39秒。100キログラムの八巻の巨体を沈め、合わせ一本勝ちした。準々決勝で緑健児を上段回し蹴りで技ありを得て、準決勝で松井と2度目の対戦を迎えた。再延長まで3回闘い、体重差もなく、試割り枚数も同じという事で4度目の闘いとなったが軍配は松井に上がった(詳細は#逸話の「判定で見放され続けた増田」を参照)。3位決定戦でブラジルのジェームズ北村を破り、3位入賞で大会を終えた。この頃から松井、黒澤浩樹と共に「三強時代到来」と呼ばれ始めた。 1986年(昭和61年)は石神井に東京都下城西支部の分支部を開設し、選手と道場主を兼務するようになっていた。第18回全日本選手権の直前に増田は、交通事故で右手首を負傷してしまう。テーピングをして参戦したが、幸いな事に殆どの対戦相手が増田の怪我に気付いていなかった。増田は初日の1回戦を左上段回し蹴りで一本勝ち、2回戦を前蹴りと下段回し蹴りで合わせ一本勝ちして終えた。2日目は決勝まで5試合しなくてはならない。増田自身は手負いの状態だったので一瞬でも気を緩めたら、負けると思い、異常な集中力を喚起していたという。準々決勝では七戸康博、準決勝では小井義和と共に100キログラム前後の体格を持った両名を本戦でそれぞれ判定勝ちして初の決勝進出を果たした。相手は松井章圭と3度目の対戦となった。本戦で増田は勝ったと思ったが判定は引き分けであった。呆然としたまま、延長戦に入り、松井の左上段回し蹴りを顔面にヒットされた。増田は正気に戻り、再び攻めるが一進一退のまま、試合が終了。顔面にヒットされた事が決め手となり、5対0の判定負けで準優勝に終わった。それでも翌年のオープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。 しかし、選手権大会を観た大山泰彦は同選手権での増田を高く評価し(詳細は#証言の「大山泰彦」を参照)、大山茂も「第18回全日本選手権のビデオを見て、私が若者らしい戦いぶりと感じたのは増田章の全試合だ。増田が自らの青春の力を出しきって、突き、蹴りまくる姿を見て、私は感銘を受けた」と語っている。
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