三強時代とは? わかりやすく解説

三強時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 14:41 UTC 版)

増田章」の記事における「三強時代」の解説

1984年昭和59年第16回オープントーナメント全日本空手道選手権大会には参戦せず、カメラマンとして会場にいた増田は、ファインダー通して選手懸命に戦う姿を見て、「空手芸術一つではないか」と捉えながら、試合をしたいという欲求出ていた。写真専門学校最後まで通うが、競技復帰する事を決意し翌年第17回全日本選手権備え練習再開した首都圏交流試合参加して試合勘取り戻すなど、専門学校に通う傍ら少な練習時間有効に使って調整していた。 1985年昭和60年)の第17回全日本選手権復帰参戦松井章圭同様に第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会以来であった増田Cブロックから勝ち上がっていった。4回戦八巻建志では突きをあまり出さず、いきなり左下回し蹴り連打につぐ連打技あり奪い続いて再び左下回し蹴り八巻右足連打して技ありをまた奪い時間にして39秒。100キログラム八巻巨体沈め合わせ一本勝ちした。準々決勝緑健児上段回し蹴り技あり得て準決勝松井2度目対戦迎えた。再延長まで3回闘い体重差もなく、試割り枚数も同じという事4度目闘いとなった軍配松井上がった詳細は#逸話の「判定見放され続けた増田」を参照)。3位決定戦ブラジルジェームズ北村破り3位入賞大会終えたこの頃から松井黒澤浩樹と共に「三強時代到来」と呼ばれ始めた1986年昭和61年)は石神井東京都下城西支部分支部を開設し選手道場主を兼務するようになっていた。第18回全日本選手権直前増田は、交通事故右手首を負傷してしまう。テーピングをして参戦したが、幸いな事に殆どの対戦相手増田怪我気付いていなかった。増田初日1回戦左上回し蹴り一本勝ち2回戦前蹴り下段回し蹴り合わせ一本勝ちして終えた2日目決勝まで5試合しなくてはならない増田自身手負いの状態だったので一瞬でも気を緩めたら、負けると思い異常な集中力喚起していたという。準々決勝では七戸康博準決勝では小井義和と共に100キログラム前後体格持った両名本戦それぞれ判定勝ちして初の決勝進出果たした相手松井章圭3度目対戦となった本戦増田勝った思った判定引き分けであった呆然としたまま、延長戦入り松井左上回し蹴り顔面ヒットされた。増田正気戻り、再び攻めるが一進一退のまま、試合終了顔面ヒットされた事が決め手となり、5対0の判定負け準優勝終わった。それでも翌年オープントーナメント全世界空手道選手権大会の代表に選出された。 しかし、選手権大会を観た大山泰彦は同選手権での増田高く評価し詳細は#証言の「大山泰彦」を参照)、大山茂も「第18回全日本選手権ビデオ見て、私が若者らしい戦いぶり感じたのは増田章全試合だ。増田が自らの青春の力を出しきって、突き蹴りまくる姿を見て、私は感銘受けた」と語っている。

※この「三強時代」の解説は、「増田章」の解説の一部です。
「三強時代」を含む「増田章」の記事については、「増田章」の概要を参照ください。

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