リヒャルトプラッツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 00:28 UTC 版)
「ピエール・ロスタン」の記事における「リヒャルトプラッツ」の解説
その後、体勢を整えた第3中隊は再度前進を開始した。建物という建物、部屋という部屋で赤軍兵と血みどろの白兵戦を繰り広げ、道路では上空から降りそそぐ迫撃砲弾にもひるまず突撃する武装親衛隊フランス人義勇兵たちは、赤軍が維持していたバリケードをついに制圧した。 ロスタンたちは道路を挟んで向かい側の建物を新たな拠点にするため、道路を横切ろうとした。その際にロスタンはパンツァーファウストをソビエト赤軍の方向へ発射して赤軍兵を撹乱したが、建物の上階の赤軍狙撃兵はこれに動じることなく狙撃銃を構え、道路を横切っていたフランス人義勇兵のうちの1人ギイ・デデュー(Guy Dedieu)の頭部を撃ち抜いた。狙撃兵を発見したロスタンは部下に建物の窓を撃つよう命じ、手榴弾を投げ込ませた。手榴弾を用いた攻撃は3度に渡って試みられ、狙撃兵は沈黙した。 次の目標としてロスタンの第3中隊はリヒャルトプラッツ(Richardplatz)方面へ進んだが、広場は赤軍の対戦車砲1門によって守られていた。やがて現れたドイツ軍の突撃砲がこれを砲撃し、敵の対戦車砲は二度と火を噴かなくなったものの、銃撃を続けるPM1910重機関銃はロスタンの中隊を物陰に釘付けにしていた。最終的にロスタンが側面からこの機関銃陣地に忍び寄り、手榴弾を放り込んで広場の戦闘に決着をつけた。 勝利の喜びと共に、第3中隊の将兵はリヒャルトプラッツに入った。この時、ロスタンはノイケルン区役所のフランスSS突撃大隊本部との連絡を失っていたにもかかわらず、テンペルホーフ〜トレプトフ(Tempelhof〜Treptow)間のSバーン線へ進出する新たな攻撃を決意していた。 しかし、突如としてロスタンの部下の1人であるアルボネル(Arbonnel)が激しく泣き出したため、ロスタンは彼の状態を確かめた。腹部に銃弾が命中したアルボネルは「やられた」と思い込んでいたが、実際には銃弾は彼のベルトのバックル部分で止まっており、奇跡的にアルボネル自身は無傷であった。ロスタンは泣きわめくアルボネルの頬を何回か軽く叩き、彼を落ち着かせた。 その後もロスタンの第3中隊は戦闘を継続したが、4月26日午後5時頃、大隊長アンリ・フネSS義勇大尉から通達された命令により、第3中隊は大隊本部まで帰還することとなった。攻勢に出ている自分の中隊が他の中隊(いずれも苦戦の末に後退)のおかげで進撃を停止させられることにロスタンは怒りを覚えたが、命令に従って大隊本部に合流した。第3中隊は26日午後7時にハーマンプラッツ(Hermannplatz)まで後退するフランスSS突撃大隊の後衛を務めた。 ノイケルンの戦いが開始された26日朝の時点では約80名の将兵を数えた第3中隊であったが、その兵力は26日夜の時点で約30名に減少していた。
※この「リヒャルトプラッツ」の解説は、「ピエール・ロスタン」の解説の一部です。
「リヒャルトプラッツ」を含む「ピエール・ロスタン」の記事については、「ピエール・ロスタン」の概要を参照ください。
- リヒャルトプラッツのページへのリンク