マッカーサー元帥杯スポーツ競技会
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサー元帥杯スポーツ競技会」の解説
関西の実業家池田政三がスポーツにより日本の復興に寄与しようと、全国規模でのスポーツ大会の開催を計画した。池田はマッカーサーを敬愛していたことから、大会名を『マッカーサー元帥杯競技』とすることを望み、知人のアメリカ人実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズを通じマッカーサーと面会する機会を得て、自費で作成した大会のカップを持参し競技会開催を直談判した結果、マッカーサーより大会開催とマッカーサーの名前を大会名とすることを許可された。 大会の種目は、池田との関係が深かった軟式テニス、硬式テニス、卓球の3種目となった。池田は私財から100万円の資金と、マッカーサーのサイン入りの3つの銀製カップを準備したが、『マッカーサー元帥杯』と冠名があっても、GHQは運営面での支援はせず、1948年8月開催の第一回の西宮大会の運営費24万円の内20万円は池田からの支援、残りは大会収入で賄われた。 当時の日本では、GHQにより全体的行進、宗教的行動、国家斉唱、国旗の掲揚などが禁止されており、京都で開催された第1回国民体育大会の開会式は音楽もなく、選手宣誓と関係者挨拶の質素なものであったが、マ元帥杯は特別に入場行進も許可され、アメリカ軍の軍楽隊による演奏、マッカーサー、総理大臣、文部大臣(いずれも代理)による祝辞等、敗戦間もない当時としては、スポーツ大会らしからぬ絢爛豪華な開会式となった。競技会には男子271名女子120名合計391名が参加し盛大に行われた。優勝者には銀製カップの他にマッカーサーの横顔が刻印されたメダルと賞状も授与された。 マッカーサーが直接許可した大会であったためか、第2回目の東京大会は特別に皇居内で開催された。これは2016年時点で皇居内で行われた唯一の全国規模のスポーツ大会となる。その後は大会を主導していた日本体育協会の尽力もあり、第6回の長崎大会まで各地方都市で開催され、地方都市でのスポーツ振興に貢献することとなった。しかし、マッカーサーが更迭され、日本人は12歳発言で日本での人気が収束すると、『マッカーサー元帥杯』という大会名を見直そうという動きが始まり、第7回岡山大会では『マッカーサー記念杯全国都市対抗』という大会名に改称、第9回大会の開催地会津若松市からは「マ元帥杯」という名前は困るとの申し出があるに至り、1955年の第9回の会津若松市での大会は『全国市長会長杯』とマッカーサーの名前を一切排した大会名に改称され、『マッカーサー元帥杯』は8年で幕を下ろす事となった。その後もこの大会は形式や名称を変え最後は『全国都市対抗三競技大会』という名称となり、1975年の第30回大会(福岡市)まで継続された。その後、硬式テニスの全国大会のみが、翌1976年から開始された全日本都市対抗テニス大会に引き継がれている。
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