マッカーサー元帥杯スポーツ競技会とは? わかりやすく解説

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マッカーサー元帥杯スポーツ競技会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)

ダグラス・マッカーサー」の記事における「マッカーサー元帥杯スポーツ競技会」の解説

関西実業家池田政三がスポーツにより日本復興寄与しようと、全国規模でのスポーツ大会開催計画した池田マッカーサー敬愛していたことから、大会名を『マッカーサー元帥競技』とすることを望み知人アメリカ人実業家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ通じマッカーサー面会する機会得て自費作成した大会カップ持参し競技会開催直談判し結果マッカーサーより大会開催マッカーサーの名前を大会名とすることを許可された。 大会種目は、池田との関係深かった軟式テニス硬式テニス卓球3種となった池田私財から100万円の資金と、マッカーサーサイン入り3つの銀製カップ準備したが、『マッカーサー元帥杯』と冠名があっても、GHQ運営面での支援はせず、1948年8月開催第一回西宮大会の運営24万円の内20万円池田からの支援残り大会収入賄われた。 当時日本ではGHQにより全体的行進宗教的行動国家斉唱国旗掲揚などが禁止されており、京都開催され第1回国民体育大会開会式音楽もなく、選手宣誓関係者挨拶質素なものであったが、マ元帥杯は特別に入場行進許可されアメリカ軍軍楽隊による演奏マッカーサー総理大臣文部大臣いずれも代理)による祝辞等、敗戦間もない当時としては、スポーツ大会らしからぬ絢爛豪華開会式となった競技会には男子271女子120合計391名が参加し盛大に行われた優勝者には銀製カップの他にマッカーサー横顔刻印されメダルと賞状も授与された。 マッカーサー直接許可した大会であったためか、第2回目東京大会特別に皇居内で開催された。これは2016年時点で皇居内で行われた唯一の全国規模スポーツ大会となる。その後大会主導していた日本体育協会尽力もあり、第6回長崎大会まで各地方都市開催され地方都市でのスポーツ振興貢献することとなった。しかし、マッカーサー更迭され日本人は12歳発言日本での人気収束すると、『マッカーサー元帥杯』という大会名見直そうという動き始まり第7回岡山大会では『マッカーサー記念全国都市対抗』という大会名改称第9回大会開催会津若松市からは「マ元帥杯」という名前は困るとの申し出があるに至り1955年第9回会津若松市での大会は『全国市長会長杯』とマッカーサーの名前を一切排し大会名改称され、『マッカーサー元帥杯』は8年幕を下ろす事となった。その後もこの大会形式や名称を変え最後は『全国都市対抗三競技大会』という名称となり、1975年第30回大会福岡市)まで継続された。その後硬式テニス全国大会のみが、翌1976年から開始され全日本都市対抗テニス大会引き継がれている。

※この「マッカーサー元帥杯スポーツ競技会」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「マッカーサー元帥杯スポーツ競技会」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。

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