ポツダム協定
ポツダム協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 00:22 UTC 版)
「セルゲイ・サゾーノフ」の記事における「ポツダム協定」の解説
サゾーノフは、正式に外務大臣に任命される直前の1910年11月4日から6日までベルリン近郊のポツダムで開かれたロシア皇帝ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の会談に出席した。この動きは、ボスニア危機のあいだロシアの国益に対するイギリスの裏切りを認め、それを非難することが意図されていた。実際、イギリス外相エドワード・グレイは「ドイツとロシアのデタント(和解)」の前ぶれに深刻な危機感をいだいたのである。 2人の君主は、「肥沃な三日月地帯」がドイツ帝国にもたらすと期待される相当な地政学的影響、および、ドイツの野心的な計画であるバグダード鉄道について話し合った。ロシアは、ペルシャ立憲革命を背景として、将来、カナキン(英語版)-テヘランの鉄道支線を統制下に置くことを切望した。2つの大国は、1911年8月11日に独露ポツダム協定(英語版)を調印して利害の調整を図り、ロシアにはイラン北部での行動の自由が認められた。サゾーノフはその間病気であり、彼の不在時には外務省はアナトリー・ネラトフ(英語版)が率いていた。しかしながら、サゾーノフが望んだように、ペルシャとヨーロッパを結ぶ最初の鉄道はロシアにその南接する領域への影響力拡大をもたらすこととなったのである。 当初の約束にもかかわらず、ロシアとドイツの連帯は1913年に崩壊した。同年、ドイツ皇帝がトルコ軍の再編成とコンスタンティノープル守備隊の監督のため将軍1名を派遣し、「ボスポラス海峡の要塞の上には間もなくドイツの旗がひるがえるであろう」と述べ、ロシアの輸出の5分の2を占める重要な貿易上の動脈(ボスポラス海峡)の封鎖をほのめかしたのである。
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