ホラズムとアイユーブ朝による征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 02:14 UTC 版)
「大セルジューク朝」の記事における「ホラズムとアイユーブ朝による征服」の解説
「サラーフッディーン」、「アイユーブ朝」、および「ホラズム朝」も参照 1153年、オグズは謀反を起こしサンジャルを捕えた。3年後に脱走できたが、1年後に死亡した。ザンギー朝やアルトゥク朝のようなアタベクは、名目上に限って言えばセルジューク朝のスルタンの支配を受けたが、一般的には独立してシリアを支配した。アフマド・サンジャルが1157年に死ぬと、大セルジューク朝は分裂し、事実上アタベクを独立させた。 ホラーサーンとトランスオクシアナのホラーサーン・セルジューク朝。首都:メルブ ケルマーン・セルジューク朝 ルーム・セルジューク朝(またはトルコのセルジューク族)。首都:イズニク(ニカイア)、後にコンヤ イランのサルグル朝(英語版)のアタベク イラクとアゼルバイジャンのイルデニズ朝のアタベク(アゼルバイジャンのアタベク)。首都:ナヒチェヴァン(1136年-1175年)、ハマダーン(1176年-1186年)、タブリーズ(1187年-1225年) シリアのブーリー朝のアタベク。首都:ダマスカス ジャズィーラ(北メソポタミア)のザンギーのアタベク。首都:モースル テュルクマーン・ベグリク:小アジアのダニシュメンド朝、アルトゥク朝、サルトゥーク朝(英語版)、メンギュジェク家(英語版) 第2回十字軍の後でヌールッディーンの将軍シール・クーフは、ファーティマ朝のエジプトで名声を確立し、サラーフッディーンにより継承された。結局はサラーフッディーンはヌールッディーンに反旗を翻し、その死に際してサラーフッディーンはその未亡人と結婚し、シリアの殆どを手に入れ、アイユーブ朝を創設した。 別の戦線では、グルジアが地域の強国になり始め、大セルジューク朝を侵食しながら国境を拡大した。同じことはアナトリア半島でレオ2世(英語版)が統治するキリキア・アルメニア王国の復興期にも起きた。アッバース朝カリフナースィルもカリフの権威を再び主張し始め、ホラズムシャーアラーウッディーン・テキシュと連合した。 短期間トゥグリル3世はアナトリア半島を除く全セルジューク朝のスルタンであった。しかし1194年にトゥグリルはホラズム朝シャーアラーウッディーン・テキシュに破れ大セルジューク朝は遂に崩壊した。嘗ての大セルジューク朝の内アナトリア半島のルーム・セルジューク朝だけが残った。 王朝が13世紀半ばに衰退したので、モンゴル帝国が1260年代にアナトリア半島(英語版)に侵攻し、ベイリクと呼ばれる小さな首長国に分割した。結局この内の一つオスマン帝国が強大になり、残りを征服した。
※この「ホラズムとアイユーブ朝による征服」の解説は、「大セルジューク朝」の解説の一部です。
「ホラズムとアイユーブ朝による征服」を含む「大セルジューク朝」の記事については、「大セルジューク朝」の概要を参照ください。
- ホラズムとアイユーブ朝による征服のページへのリンク