ベルリン滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「ベルリン滞在」の解説
1932年頃から、オットーはドイツ国の政治家たちの知遇を得るようになった。オットーは『オーストリアの農民の財産相続権と不可分性について』というテーマの博士論文を書こうと考えていたが、対象となるはずのオーストリアはハプスブルク家を国外追放にしていたため、農業政策に関して世界的に有名だったベルリンのマックス・ゼ―リング教授のもとを訪れていた。当時のドイツは国家社会主義者が伸張していた時期で、政治や政党に多大な興味を持っていたオットーは、この頃にアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』を購入した。これを読んだオットーは、ヒトラーがいずれ大きな戦争を起こそうとしていると感じ取ったという。 ベルリンでの滞在を終えようとしていたオットーは、招待に応じてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領を訪問した。ヒンデンブルクは、オーストリアの勲章だけを身に付けてオットーにこう言った。「殿下、ご存じでしょうか。このベルリンではただ一人の人間だけがハプスブルクに敵意を抱いています。それはオーストリア人のおかしな伍長です」それは、のちにドイツ首相となるヒトラーのことを指していた。 次にオットーは、ハプスブルク家と同じく帝座を追われたホーエンツォレルン家の人々を表敬訪問した。オットーを出迎えたのは、ナチス突撃隊の恰好をしたアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン皇子であった。アウグスト・ヴィルヘルム曰く、「総統の代わりに貴方をお迎えいたします。総統はぜひ貴方とお話がしたいとおっしゃっています!」 台頭しつつあったヒトラーは、オーストリアをドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないとオットーを見ていた。しかしヒトラーの期待に反し、オットーはオーストリアの独立を望んでおり、まずオーストリアに王朝を復活させることによって中欧・東欧の地にハプスブルク君主国を再興することを目的としていた。
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