ブラックベリー方面作戦
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「チャールズ・スコット (州知事)」の記事における「ブラックベリー方面作戦」の解説
ワシントンはスコットに、1791年半ばに予備的な襲撃を何度か繰り返して敵を引きつけ、その間にセントクレアが侵略の本隊をまとめ上げるという命令を出した。アイザック・シェルビーとベンジャミン・ローガンの2人ともこの作戦を指揮することを期待していたが、どちらも人の下に付くことを受け入れなかった。それでもシェルビーは作戦を指示し、逆にローガンは積極的に反対した。1791年5月15日、スコットは志願兵にフランクフォートに集まるよう令状を発行した。ケンタッキー人は全民兵の参加による作戦という考えに前向きに反応し、852名が志願してきたが、スコットは750名のみを率いていくことが認められていた。その志願兵の中にはジョン・ブラウン上院議員も入っていた。北西部領土におけるマイアミ族に向けた外交任務の行方を知るために少し遅れた後、スコット隊は5月24日にワシントン砦を進発した。オハイオ川を渡り、現在のインディアナ州ラファイエットがある場所近く、マイアミ、キカプー、ウィー、ポタワトミの各部族集落が固まっている地域に向かった。8日の間、岩の多い地形をぬけていき、度々の豪雨でびしょぬれになった。その厳しい条件で民兵隊の物資が損なわれたので、地域に自生しているブラックベリーを集めて凌ぐことになった。このために遠征は「ブラックベリー方面作戦」という渾名を付けられることになった。 6月1日にウィー族のウィアトノン集落近くの開けた草原に到達し、そこで敵の斥候に発見されたので、村人が反応する前に村を攻撃するために急いだ。本隊が村に到着したとき、住人はカヌーでウォバッシュ川を大急ぎで渡って逃げているところだった。川向こうのキカプー族集落から支援のための煙幕が張られ、スコット隊が攻撃する前にインディアンは逃げ延びた。川が広くて、スコット隊のいる位置からは歩いては渉れなかったために、ジェイムズ・ウィルキンソン指揮の分遣隊を一方に、トマス・バービー指揮の分遣隊を他方に派遣して川を渉れる場所を探させた。ウィルキンソンは適当な場所を見つけられなかったが、戻る前にインディアンの小部隊を見つけて殺害した。バービーが渡河できる場所を見つけ、スコット隊に戻る前に、対岸のインディアンに対する短時間の襲撃を実行した。翌朝、スコットの本隊が近くの集落や作物を燃やし、一方ウィルキンソン指揮の分遣隊はケツティッペカナンクの集落に向かって出発した。この村の住人はイール川を渡って逃げており、短時間の効果も無い銃撃戦を交わした後に村を焼き、スコット隊に戻った。スコットはその公式報告書で、ケツティッペカナンク住人の多くはフランス系であり、デトロイトのフランス系開拓地に結びつきおそらくは頼っていると考えると記していた。 スコット隊は物資に不足してきたので作戦を切り上げることにした。その帰還中にホワイト川で2名の兵士が溺れた。これがスコット隊で出た唯一の死者だった。他に5名が負傷したが生還した。作戦全体でインディアン38人を殺し、57人以上を捕虜にした。スコットは公式報告書をアーサー・セントクレアに届けるために12名を先行させた。残りの者は6月15日にスチューベン砦(現在のインディアナ州クラークスビルに到着した。翌日、オハイオ川を渡ってケンタッキーに戻り、ルイビルで除隊許可を受け取った。
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