フランス移住後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 00:06 UTC 版)
「ヴィクトル・ヴァザルリ」の記事における「フランス移住後」の解説
ヴァザルリは1930年にムヘイで共に学んでいたとクラーラと共にハンガリーからパリに移住した。クラーラはパリで長男を産んだ。後に、二人の間にはもう一人、息子ができたが、この次男のジャン=ピエール(英語版)は父と同じく「オプ・アート」作家になった。 ヴァザルリの移住の目的は、色彩と光学について、より深いところまで研究し、グラフィック・デザイナーとして成功を掴むためであった。移住後は1935年まで、Havas, Draeger, Devambez といった広告代理店でグラフィック・アーティスト、クリエイティヴ・コンサルタントとして働いた。1935年以後は医療系出版社の広告や装丁を仕事にし、ムヘイのようなグラフィック・デザインの専門学校を立ち上げようとしたが、うまくいかなかった。この時期は仕事として商業的デザインをやりながら、空いた時間で個人的な作品を制作していた。1930年代のヴァザルリの作品は、ソ連のコンストラクティヴィスム(構成主義)の影響を受けた絵画作品である。 ヴァザルリは1939年にパリのサン=ジェルマン=デ=プレにあるカフェ・ド・フロールでドゥニズ・ルネ(1913–2012)と初めて出会い、彼女をパトロンとして得た。ドゥニズ・ルネはキネティック・アートやオプ・アートを専門にしたパリの画商で、アブストラクト界の女法王と呼ばれた人物である。もっとも、ヴァザルリとカフェで出会った当時、ルネは26歳、ヴァザルリ作品のプロデュースで有名になったのは第二次世界大戦後のことである。ルネはヴァザルリに、アート・ビジネスの世界に身を投じることを説得した。 第二次世界大戦中の1942年から1944年の間、ヴァザルリは南仏のロット県サン=セレ(英語版)で安宿に泊まり暮らした。この頃、アンドレ・ブルトンが偶然、ヴァザルリの作品を目にして興味を持ったことが知られている。1944年2月にドゥニズ・ルネはパリにギャラリーを開設し、ヴァザルリはパリの郊外にアトリエを持った。以後の30年あまりの人生において、ヴァザルリは、さまざまなマテリアルに取り組みながら、色数と形態は最小限に抑えるという幾何学的抽象性を追求した作品を制作し続けた。その結果、錯視を利用した美術や立体作品が数多く制作された。 1964年にアメリカの雑誌『タイム』が抽象美術であり且つポップ・アートでもあるような美術を「オプ・アート」という造語を用いて定義し、ヴィクトル・ヴァザルリのほか何人かの芸術家を紹介した。翌年1965年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)において、オプ・アート作品を展示する「感応するまなざし」(Responsive Eye)展が開かれる。これに出品したヴァザルリは以後、オプ・アートの先駆者として認知されるようになる。 1970年には南仏ゴルドに自身の作品500点あまりを集めた個人美術館を開設する(1996年に閉鎖)。1976年にはエクサンプロヴァンスにヴァザルリ財団美術館を開設した。この美術館の建物はヴァザルリが設計し、開業記念式典にはフランス大統領ジョルジュ・ポンピドゥーも臨席した。ヴィクトル・ヴァザルリは1997年3月15日にパリにて、前立腺がんにより90歳で亡くなった。
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