ヒットへの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 22:05 UTC 版)
丸の内音頭の人気を感じたビクターは、それを全国的に流行させるため、1933年7月「東京音頭」と改題して発売、当時の東京市民すべてが歌えるように改詞された。生まれ故郷の東京に盆踊りを作ることが念願だったという西条は「どうせ書くなら、ひとつ東京全市を賑やかに踊り狂わせる、たとえば阿波の阿呆踊のようなものを書いてみたい」と思ったと回想している。全十番から成る東京音頭は小唄勝太郎と三島一声の歌唱でレコード化され、卑猥さを連想させる歌詞もあって爆発的に流行した。勝太郎の一連のヒット曲に多いハァー(ハー小唄)の歌いだしの、勝太郎の力強い、景気のよい歌声は日本中に響き渡った。ビクター社員は各地の盆踊りに電気蓄音機を持って行き櫓の上で踊り方を指導し、全国のレコード店でも踊っては手売りするなど宣伝に務め、盆踊りの季節が過ぎても人気は衰えず、10月の早慶戦野球では、入場券を求める観覧客が徹夜で神宮球場に並んだが、「東京音頭」で夜を明かしたという。翌1934年の日比谷の盆踊りでは揃いの浴衣の踊り手500-600人が参加し、見物客は3000人に及んだ。 東京の見どころを歌った「東京音頭」は東京復興および経済振興の歌として受容され、東京だけでなく全国でヒットし、レコードの売り上げは発売当時だけで120万枚に達したという。勝太郎にとって、「島の娘」「明日はお立ちか」「さくら音頭」「大島おけさ」「勝太郎子守唄」などと並ぶ代表曲となった。後年、勝太郎がテイチクに移籍してからは、かつて勝太郎と犬猿の仲といわれた市丸、喜久丸、鈴木正夫によって再吹き込みされた。夜通し続いたことで、西條や中山も眠れずに困ったこともあったほどだったという。また、同じ年に流行したヨーヨーとともに紹介されることも多い。 その後も時代を越えたロングヒットとなり、総売上枚数は正確には不明であるが、1971年の段階で発売当時の20倍以上、枚数にして2000万枚以上を売り上げているともいわれる。
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