ノイハルデンベルク城
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「ヨアヒム・ベルンハルト・フォン・プリットヴィッツ」の記事における「ノイハルデンベルク城」の解説
クイリッツは1814年、ノイハルデンベルクに改称される。その後、マルクスヴァルデと呼ばれるようになり、1991年に再びノイハルデンベルクに戻った。 プリットヴィッツは1770年頃、所領の農舎の改築、もしくは新築させている。そして1785年から1790年にかけて、辺境伯の官舎の代わりに城館を建てさせた。それは一階建てで三つの翼部と、高いマンサード屋根を一つ備えていた。1790年頃にバロック様式の庭園が、部分的にイギリス風に改装されている。 フリードリヒ大王が薨去した1786年以後、彼は記念のためローマで1万ターラーを費やし、プリースボルン (Przeworno) (ニーダーシュレージエン州、クライス・シュトレーレン)産の大理石から記念碑を作成させた。 さらに彼自身と妻を、それぞれマールス神およびウェヌス神として表した別の記念碑を、1792年にフリードリヒ大王のために作らせた。これはヨハン・マイルが設計し、イタリアの彫刻家、ジュゼッペ・マルティーニが製作した物である。 1801年6月には村の古くからある部分、牧師館、学校、教会の全てと城館にある農舎の一部を破壊した、壊滅的な火災が発生する。この大被害の結果、以前に大将の息子、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルンハルト・フォン・プリットヴィッツ・ウント・ガフロン(1764年-1843年)がまとめた村の改造計画に、村の延焼部分が追加された。 その時、まだ20歳だったカール・フリードリヒ・シンケル(1781年-1841年)が代表的な建造物(教会、牧師館、学校、農舎および官舎)の設計を担当する。堤防の建築監督、ゴットヒルフ・フリードリヒ・ハイフェルダーと経理課長のシャイベルが、村の再建に責任を負った。 同年、フリードリヒ・フォン・プリットヴィッツは領主の庭園をさらに拡大し、美化しようと力を注いだ。恐らく、空間的な配置は彼自身の考案によるものである。そして庭園は、南東の方向へ大きく拡張された。かつては正方形であった堀の南側は開放され、排水システムが組み込まれている。 要するに、今日のノイハルデンベルクの外観はプリットヴィッツ家が領主であった時代に出来上がったのである。
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