ニケフォロスとの結婚と皇帝暗殺への加担
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「テオファノ」の記事における「ニケフォロスとの結婚と皇帝暗殺への加担」の解説
夫の死後、まだ幼い息子たち、5歳のバシレイオス2世と3歳のコンスタンティノス8世が共同統治帝として即位し、テオファノはその摂政となった。しかし彼女には、当時強大な権力を持っていた軍隊に対する影響力がなかった。軍隊は、帝国中央軍・スコライ軍団の長官である将軍ニケフォロス・フォカスを皇帝として支持し、彼は幼い皇帝たちの後見になるとして、同年8月15日にコンスタンティノープルへ入城。バシレイオス・レカペヌス等の協力もあって、ロマノスの寵臣で宦官のブリンガス派を市街戦で制圧し、彼はハギア・ソフィアで正式に戴冠した。そして彼は、自らの皇位を正当化するため、前の皇后テオファノと結婚した。 964年にニケフォロス2世フォカスにより行われたキリキア遠征に子供らと共に従軍し、ドリズィオン要塞に留まった。 ニケフォロスは、テオファノの子供たちの守護者となり、彼なりに年の離れた美しい妻を愛していたという。しかしテオファノは、勇猛な軍人であり敬虔なキリスト教徒である堅物の夫を嫌った。彼女は、前夫ロマノスの死で失うはずだった自分の地位を保全するために、ニケフォロスの妻となったのだった。やがてテオファノは、若く実績がありながらニケフォロスに冷遇されていた将軍ヨハネス・ツィミスケス(ニケフォロスの甥)と愛人関係になった。2人はニケフォロスの暗殺を計画し、それを969年12月10日から11日の夜中に実行した。テオファノの手引きで宮殿に乱入したヨハネスら暗殺者らは、眠りについていたニケフォロスを刺し殺した。その後、ヨハネスはすぐに宮殿の大広間の玉座に座り皇帝となった。 新皇帝ヨハネスの妻となることを疑わなかったテオファノは、無惨に彼に裏切られた。コンスタンティノープル総主教ポリュエウクトスに、暗殺者を皇帝として戴冠させることはできないと戴冠式を拒否されると、総主教に逆らえないヨハネスは、テオファノを暗殺の首謀者として告発し、宮廷から追放させたのだった。ポリュエウクトスはこの措置に満足し、戴冠式を司った。 ヨハネスはテオファノが修道院へ追い払ったロマノスの妹テオドラを皇后に迎え、マケドニア王朝との縁戚関係を結んで帝位の正統性を確保した。
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