トーキー時代のターピン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 10:01 UTC 版)
「ベン・ターピン」の記事における「トーキー時代のターピン」の解説
1929年にはトーキー映画の到来により、それまでと違う新しい演技、技術を求められた多くのサイレント映画のスターが将来を不安がるようになり、ターピンは引退することを選んだ。ターピンは稼ぎを不動産へ投資して成功していたため、経済的にそれ以上働く必要がなくなっていたのである。映画プロデューサー達はすぐに、ギャグの場面に出演させようとターピンを探し出したが、ターピンは1回の出演につき、セリフがあっても一瞬のカメオ出演でも変わらずに一律1,000ドルの出演料を要求した。そのようなカメオ出演の中で最も記憶されているものに、パラマウント映画配給の『進めオリンピック(英語版)』(1932年)がある。 この時期にターピンが重要な役を演じたもう一つの作品は、サイレント映画時代のコメディアンが再集結した2巻物の短編映画『キーストン・ホテル(英語版)』(ワーナー・ブラザース配給、1935年)である。ターピンのいらだったような話声は、彼が若い頃に話していたニューオーリンズ訛の特徴が表れている。ターピンの最後の映画出演は1940年、ローレル&ハーディの『Saps at Sea』であり、彼の藪睨みの顔がジョークのオチとして使われている。ターピンはこの一瞬の顔の撮影と16語のセリフだけで、1,000ドルの出演料を手にした。続いてチャップリンの『独裁者』での出演も予定されていたが、死去により実現しなかった。
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