チベットへの侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 08:34 UTC 版)
時にチベットではダライ・ラマ5世の死後混乱状態となっており、ダライ・ラマ6世の乱立が起きていた。そんな中、青海ホシュート部長でチベットのグシ・ハン王朝の王ラサン・ハーン(中国語版、ロシア語版、ドイツ語版)の権威が失墜し、彼に対するチベット人と青海ホシュート部領主たちの反感は増えていった。ツェワンラブタンはそれを利用して1716年、ツェレンドンドプ将軍に命じチベットに侵攻した。翌年、ジュンガル軍はラサを占領、ラサン・ハーンを討ち取った。しかし、ジュンガル軍がゲルク派以外の寺院や僧侶などを殺略したので、チベット人たちはジュンガルに敵意を抱くようになった。1718年9月、清はジュンガルに対抗するべく第1次派遣軍を出したが壊滅した(サルウィン川の戦い(英語版))。 1720年、康熙帝は第2次派遣軍を、青海・四川からチベットに進軍させ、ジュンガル軍を破り、ダライ・ラマ7世を擁立する。同年、さらに富康安と傅爾丹(フルダン)の二人の将軍に命じてトルファン侵攻を開始する。当時ツェワンラブタンはロシアとの紛争に忙しく、東部の防衛はおろそかになっていた。清軍は翌年までにピチャン、チャルクリク、トルファン城を攻め落とし、1722年にはトルファンに屯田を開き、1723年には吐魯番漢城を築く。1722年には康熙帝は病死している。 1725年、清とジュンガルは講和し、清軍はバリクルより撤退した。このとき、トルファンのウイグル人はジュンガルを恐れて清への移住を申し出て、清に受け入れられ、粛州衛に移住した。1727年、ヴォルガ河畔からトルグート部の使節が到着したすぐあとにツェワンラブタンは毒を盛られて急死した。
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