ダイニチ映配の崩壊、日活ロマンポルノ路線転向と大映倒産
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「ダイニチ映配」の記事における「ダイニチ映配の崩壊、日活ロマンポルノ路線転向と大映倒産」の解説
ダイニチ映配時代の間にも両者の経営はますます悪化していった。 1971年になると、大映では3月に250人の希望退職者を募集。4月にはついに東京京橋交差点角にあった本社ビルを売却することになる。大映は、永田の方針として映画の自社内製にこだわり続けた一方で、全盛期の収益は主に株式配当や永田の政治活動などに充当されており、映像事業強化や多角化による経営基盤の強化に積極的に資本を投入しなかった点が、他社とは決定的に違っていた。このため、映画事業が不振となり経済的に行き詰まった時、大映にはそれに代わって安定的に収益を生み出す手段もなく、資金面で窮するたびに本社や撮影所などを含む自社関係の敷地や資産を切り売りしてどうにかしのぐという、苦しい選択肢しか残されていなかったのである。 一方、日活では6月に堀久作社長が退陣し、息子の堀雅彦が社長に就任する。この余波で、堀久作の片腕だった壺田が日活常務を解任され、ダイニチ映配に取り残されることになる。前月5月に松山が病気のため社長を退陣し、壺田が社長に就任したばかりの出来事だった。 8月に日活制作の『八月の濡れた砂』『不良少女 魔子』が公開。これをもって同時に日活は映画製作を中断、ダイニチ映配から離脱する。これによって配給網が成り立たなくなったダイニチ映配は、同月に崩壊。結果的に壺田は、大映やダイニチ映配と運命を共にすることになる。 日活は、暗黒時代の映画界でとにかく会社を生き残らせるため、同年11月から成人映画路線「日活ロマンポルノ」をスタートさせた。ほとんどの俳優はフリーとなり、他社やテレビ業界へと活躍の場を移すことになる。それに対しスタッフは、キャリアの浅い若手を中心にロマンポルノへと足を踏み入れていった。 「日活ロマンポルノ」を参照 一方、大映は、10月に大映配給株式会社による単独配給を再開。関根恵子が大映で主演した最終作『成熟』など、その後の作品は大映単独で配給している。この時期に大映テレビが分社化。11月20日に最後の封切作品である八並映子主演の『悪名尼』(大映東京)と川崎あかね主演の風俗時代劇『蜘蛛の湯女』(大映京都)を公開。そのわずか9日後の29日に折から体調を崩していた永田雅一に代わり、息子である副社長の永田秀雅から全従業員に解雇通告がなされ業務全面停止、翌12月に不渡手形を出し、大映は破産宣告を受ける。 「大映#1970年代」および「大映テレビ」を参照 東宝も翌1972年に自社での映画製作を大幅縮小。専属俳優の解雇を実施し、ほぼ外部からの調達に切り替えた。 「東宝#映画製作部門の大幅縮小」を参照 このようにして大映こそ、破産という形で五社協定もろとも崩壊したものの、自社専属俳優体制の脱却、経営の多角化などの変化を通じて、自社の興行網を維持した上で斜陽の時代を乗り切っていったのである。
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