スペイン・イベリアからの追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「スペイン・イベリアからの追放」の解説
スペインでは、718年からのレコンキスタ(イスラム勢力からの再征服)の過程で、十字軍のようにキリスト教国家の意識が高まっており、イスラム教への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。 1366年以降、トラスタマラ朝のカスティーリャ王国のエンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対して、前王はユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った。1370年以降、スペインのエシハ聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した。 1391年6月9日、カスティーリャ王国のセビーリャで反ユダヤ運動が起こった。ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国のブルゴス、コルドバ、トレド、バレンシア王国、カタルーニャ君主国のバルセロナ、アラゴン王国のバレアレス諸島に飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された。改宗者はコンベルソと呼ばれた。 1480年以降、スペイン異端審問裁判所がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者コンベルソが処刑され、1万5000人が悔罪した。1491年、スペインのラ・グアルディアでユダヤ人が儀式殺人で処刑された。 1492年、スペインでユダヤ人追放令。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去し、他のヨーロッパ国家やオスマン帝国に逃れた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。1497年には、ポルトガルでもユダヤ追放令が出された。 1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした。
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