ステファノの処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:26 UTC 版)
詳細は「ステファノ」および「ヘレニスト」を参照 ペトロを筆頭とする「十二人」を中心としたアラム語を話す教会の主流派グループに対し、ヘレニスト達はステファノを筆頭とした「七人」を中心としていた。この両者は(『使徒行伝』の伝承を信ずるならば)、共同体内部における食事の配給の不公平を切っ掛けに対立を始めた。これは実際には文化的、教理的な根深い対立が表面化したものであろうと考えられる。特に(ユダヤ教の)神殿や祭儀の権威に対しヘレニストの間から批判の声が強まると波紋が大きくなり、執事であったステファノがエルサレムの大祭司に逮捕される事態に発展した。ステファノはその場でユダヤ教の神殿中心の教義を強く批判したためユダヤ教徒各派の激しい怒りを招き、石打ちの刑によって処刑された。 この事件を切っ掛けに、「キリスト教」のヘレニストグループはユダヤ当局による迫害の対象となりエルサレムを追われた。一方で主流派はそのままエルサレムに留まった。しかし、エルサレムから離れたヘレニスト達はサマリアや地中海沿岸の各都市など、ユダヤ当局の追及の手が及ばない地域で活発な伝道を行うようになり、「キリスト教」はエルサレム周囲のみならず、各地の都市に広まるようになった。
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