ジャッキー吉川とブルー・コメッツとは? わかりやすく解説

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ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

ジャッキー吉川とブルー・コメッツの画像 ジャッキー吉川とブルー・コメッツの画像
グループ名ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
グループ名フリガナじゃっきーよしかわとぶるーこめっつ
グループメンバージャッキー吉川/高橋 健二/小田 啓義/三原 綱木
性別男性グループ
URLhttp://www.bluecomets.jp/profile/index.html
デビュー年1966
プロフィール昭和32年こと、協同企画創設者永島達司(後にザ・ビートルズ/アンディウイリアムス等の日本公演手掛けた日本初芸能プロモーター伝説呼び屋)が、当時の各バンドリーダーだけを集めて結成したのが【ブルー・コメッツ】である。当時はロックコンボが母体グループとして米軍キャンプ渋谷ジャズ喫茶」を中心に活動をしていたが、来日したジーン・ヴィンセント」のツアーコンサートバックバンド選ばれた程、音楽性高めていった。その後幾度かメンバーチェンジ経て【ジャッキー吉川とブルー・コメッツ】に改名される。日本一バックバンド目指した彼らは、【こまどり姉妹/水原 弘/鹿内タカシ/中尾ミエ/伊東ゆかり/園まり/ザ・ピーナッツ/尾藤イサオ】等、さまざまなスター演奏をした。それまでは、業界内での知名度人気高かったが【ジャニー喜多川】の誘いにより、【初代ジャニーズ(飯野おさみ/あおい輝彦/中谷 良/真家ひろみ)】のバック演奏始めたのが切っ掛けで、一般的な知名度人気高めていったとされている。しかし、夢が叶った彼らの心に生まれたものは、日本一バンドとは言っても所詮演奏バンドという思いであった。「これから自分たちも主役として歌いたい!!」「自分たちで音楽を作って自分たちで演奏しながら歌いたい!!」という思いから作られたのが、レコードデビュー曲「青い瞳」。今の時代では自分達で音楽を作り自分達で演奏しながら歌うのは当たり前のようにあるが、その当時考えられないであった為、反対されるばかりで理解してくれる者はいなかった。しかし、そんな時に理解示してくれた【すぎやま こういち氏】の協力により、レコードデビューへの道に繋がったとも言われている。当時レコード会社には専属制度があり、専属契約されている者だけしか レコード出せなかった。そこで、洋楽部門には専属制度が無い事が分かり青い瞳」を英語に書き換えCBSコロムビア洋楽部門から昭和41年3月発売された。その後フジTV 人気音楽番組 ザ・ヒットパレード」に毎週出演をし、レコード販売枚数10万記録しコロムビアレコード専属になる。昭和41年日本武道館にて開催された「ザ・ビートルズ日本公演」に出演昭和41年7月、「青い瞳日本語版を発売。(レコード販売枚数50万枚記録)同年第17回 NHK紅白歌合戦初出場(出場曲:青い瞳)」昭和42年3月ブルーシャトウ」を発売。(レコード販売総数:200万枚記録)昭和42年5月美空ひばり】とのコラボレーション曲「真赤な太陽」を発売(販売枚数140万枚記録)同年ブルーシャトウ」にて「第9回 日本レコード大賞受賞同年第18回 NHK紅白歌合戦出場」。昭和43年アメリカ進出し人気バラエティー番組エド・サリヴァン・ショー」に出演するなど、国内外輝かし実績残した同年第19回 NHK紅白歌合戦出場」。【ジャッキー吉川&ブルー・コメッツ】とは、まさに日本ポップス 今で言う【J・POP】を切り開いた音楽グループである。
デビュー作青い瞳/青い彗星
代表作品1年1968
代表作品1草原の輝き/マイ・サマー・ガール』
代表作品2年1971
代表作品2ブルー・シャトウ
代表作品3年1971
代表作品3雨の賛美歌/運命だから』
職種音楽

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ジャッキー吉川とブルー・コメッツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/08 09:09 UTC 版)

ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(ジャッキーよしかわとブルー・コメッツ、Jackey Yoshikawa & His Blue Comets)は、日本のバンドで1960年代に一世を風靡したグループ・サウンズの1つ。1957年に結成されたロックコンボが母体。グループ名の由来は[1]「どの星よりも光り輝く彗星のように」である。当時の所属芸能事務所は大橋プロダクション(渡辺プロダクションと業務提携)。21世紀の所属事務所はオフィス・アタック。略称は「ブルコメ」が定着しているが、公式では「コメッツ」を用いている。なお、ステージ用の衣装スーツは紳士服メーカー「エドワーズ」の特別製を着用していた。


注釈

  1. ^ 1968年6月30日のシングル「草原の輝き」リリース後に日本コロムビアからCBSレーベルが離脱したため、それ以降の1972年までの作品は「(洋楽レーベルとしての)COLUMBIA」(L盤)の日本ローカル盤からのリリースとなった。

出典

  1. ^ 近代映画 1967年12月号 近代映画社 p.129。
  2. ^ GSアイ・ラヴ・ユー ニュー・ロック&アフターGSサウンド世代 音楽出版社 p.32。
  3. ^ http://music-calendar.jp/2017062901
  4. ^ 朝日新聞学芸部編『戦後芸能史物語』
  5. ^ 「ブルー・コメッツ」ジャッキー吉川さん死去 「ブルー・シャトウ」が大ヒット - スポニチアネックス 2020年4月21日(2020年4月22日閲覧)。


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