ザ・スパイダース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 01:23 UTC 版)
ザ・スパイダース(The Spiders)は、日本のグループ・サウンズ(GS)のバンド。1961年、田辺昭知が結成し、ジャッキー吉川とブルー・コメッツとともにGSの礎を築いたグループ。ヒット曲に「夕陽が泣いている」「なんとなくなんとなく」「あの時君は若かった」などがあり、1970年に解散。
注釈
- ^ 常日頃から田辺より「いずれリード・ギターにしてやるから!」と言われるも希薄な気配を感じ取り、とある日のジャズ喫茶出演時、田辺のドラム・ソロの真最中に「お世話になりましたっ!」とギターを抱え失踪。寺内タケシとブルージーンズを経てザ・ワイルドワンズ結成の運びとなる(「強行手段に出なければ辞めさせてもらえなかったので苦渋の策だった」とTVで語っている)。
- ^ 1985〜1987年の何れかに読売テレビ『スター爆笑Q&A』でGS特集の際に出演したかまやつひろしが詳細を語っていた。
- ^ スパイダースはこの曲をアニマルズのアレンジを元にカバーしていたため、出番と勘違いしたヴォーカルのエリック・バードンがステージへ飛び出して来そうになったという[7]。
- ^ 「フリフリ」のジャケット写真にかまやつが写っていないが、これはかまやつが撮影時に遅刻をしたためである。また、かまやつが到着してからも写真を撮っているが、何故か6人の写真がジャケットに採用された。
出典
- ^ [1]
- ^ 大野克夫先生インタビュー:日本テレビ音楽株式会社
- ^ ザ・セント・オー・ジーンズホームページ 加藤充インタビュー
- ^ 日本の60年代ロックのすべて:COMPLETE:ロカビリー登場からGS革命まで 黒沢進著 シンコーミュージックエンタテイメント 2008年3月刊 かまやつひろしインタビュー 220頁[注釈 2]
- ^ 「贅沢な人生。」セオリーvol.1、講談社、2009年1月、120頁。
- ^ 「贅沢な人生。」セオリーvol.1、講談社、2009年1月、123頁。
- ^ フォーエヴァーマガジン VOL.5 1983年9月刊 かまやつひろしインタビュー 95頁
- ^ https://www.nikkatsu.com/movie/20543.html
- 1 ザ・スパイダースとは
- 2 ザ・スパイダースの概要
- 3 解散後
- 4 特徴
- 5 脚注
ザ・スパイダース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:57 UTC 版)
1961年に田邊昭知が「ザ・スパイダース」を結成。すでに京都で名を馳せていた大野は田邊から熱烈な勧誘を受けるが、「徹底的に腕をみがいてから」という理由で一度は誘いを断る。その後改めてスカウトを受け、1962年7月にスパイダースに加入。スパイダースは1965年に「フリフリ」でデビューした。スチールギターのほかオルガンなどを担当し、作曲も手がけた。演奏技術はもちろん、甘いルックスで当時流行のグループ・サウンズの一員として人気を集め、テレビや映画でも活躍。スパイダースとしてのグラビアや記事は明星、平凡などの芸能雑誌をはじめ、マーガレットなどの少女雑誌にも掲載された。 担当楽器の他にも、エレキシタール、琴、ヴィブラフォンなどさまざまな楽器を演奏した。メンバーのかまやつひろしは「一言で言えば天才なんです。一度聴いた曲はすぐに譜面に書けるし、どんな楽器もうまい。ライブだけでなくスタジオワークも万全。こんな多彩なミュージシャン、日本にはそういない」と述べている。
※この「ザ・スパイダース」の解説は、「大野克夫」の解説の一部です。
「ザ・スパイダース」を含む「大野克夫」の記事については、「大野克夫」の概要を参照ください。
ザ・スパイダース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:19 UTC 版)
神奈川県鎌倉市にある鎌倉学園在学中で16歳だった1962年、田辺昭知率いる音楽バンド「ザ・スパイダース」に加入し、その後加入した井上順とともにボーカルを担当。「夕陽が泣いている」などがヒットした。鎌倉学園出身の後輩には、桑田佳祐がいた。
※この「ザ・スパイダース」の解説は、「堺正章」の解説の一部です。
「ザ・スパイダース」を含む「堺正章」の記事については、「堺正章」の概要を参照ください。
ザ・スパイダース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:45 UTC 版)
「ザ・スパイダース」にゲストボーカルで参加した後、正式メンバーとしてヴォーカル及びリズムギターを担当、代表曲である「あの時君は若かった」「いつまでもどこまでも」「バン・バン・バン」「ノー・ノー・ボーイ」「フリフリ」「なんとなくなんとなく」などを作曲した。1970年9月の最終シングル「エレクトリックおばあちゃん」は、かまやつの作曲である。 当時から晩年まで、かまやつは遅刻魔として有名でデビューシングル『フリフリ』のジャケット撮影時も遅刻したため、彼の姿は写っていない。また、堺正章は「ある時かまやつの遅刻に気付いてアパートに電話をしたが、出た相手に『かまやつさんは出発しました』と言われた。電話を切った後でその相手こそがかまやつだったと気付いた」というエピソードを語っている。 他にも印象的なステージダンスやステージの服装関連といった、ザ・スパイダースの音楽的なアイディアマンとしてグループの中心人物となった。また、当時のトップレーサーである福澤幸雄や式場壮吉らと親交があり、かまやつはファッションリーダー的存在であった。紳士服メーカー「エドワーズ」企画部長でもあった福澤からは衣装提供なども受けた。
※この「ザ・スパイダース」の解説は、「かまやつひろし」の解説の一部です。
「ザ・スパイダース」を含む「かまやつひろし」の記事については、「かまやつひろし」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ザ・スパイダースのページへのリンク