シャムでの事業とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > シャムでの事業の意味・解説 

シャムでの事業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/09 07:24 UTC 版)

石橋禹三郎」の記事における「シャムでの事業」の解説

1892年明治25年4月21日父の病気のため帰国した徴兵検査落ちアジア主義唱え客死した菅沼貞風浦敬一遺志を継ぐべく思案していたところ、1893年明治26年パークナム事件を受け、シャム王国への渡航決意した白人勢力対抗するため、シャム植民事業拡張し政府日本人潜入させ、鉄道株買占めマレー半島買入れる等の野望抱き1894年明治27年4月10日神戸港からアサモア号で渡航した上海寄港時には旅費尽きたが、日清貿易研究所島忠次郎助けでデッキパッセンジャーとしてバンコク渡った到着後、現地にいた元軍人岩本千綱と意気投合し、バーン・サーラーデーンの農商務大臣スラサックモントリー(タイ語版)旧邸内の1棟を借りて暁鐘庵と号し8月26日日暹協会設立した10月暹羅殖民会社理事農業部主任に就任し、千綱が連れて来た日本人移民耕作監督したが、移民高齢土地農業適さず、失敗終わったその後移民はワタッタナー金鉱山会社ブカヌン金鉱山(現ナコーンラーチャシーマー県ワンナムキアオ郡(タイ語版)ワンミー準郡ター・ワンサイ)で働いたが、労働環境過酷極め1895年明治28年9月助け行った時には大半マラリア等で死亡する惨事となっていた。 この後岩本千綱は第2次移民募るため帰国したが、禹三郎はこれに参加せず1895年明治28年8月イギリス国籍ポルトガル人デ・ソーザが怪しげ出資金集めて設立した日暹銀行融資同月石橋商会開店した松野三郎主任として日本麦酒平野水等の卸売行い、また同郷山田貞一佐志雅雄と西洋洗濯や靴、家具製造等の事業計画したが、経営振るわず10月下旬閉店し1896年明治29年初め帰国した

※この「シャムでの事業」の解説は、「石橋禹三郎」の解説の一部です。
「シャムでの事業」を含む「石橋禹三郎」の記事については、「石橋禹三郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「シャムでの事業」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「シャムでの事業」の関連用語

シャムでの事業のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



シャムでの事業のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの石橋禹三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS