シャムでの事業
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1892年(明治25年)4月21日父の病気のため帰国した。徴兵検査に落ち、アジア主義を唱え客死した菅沼貞風、浦敬一の遺志を継ぐべく思案していたところ、1893年(明治26年)パークナム事件を受け、シャム王国への渡航を決意した。白人勢力に対抗するため、シャムで植民事業を拡張し、政府に日本人を潜入させ、鉄道株を買占め、マレー半島を買入れる等の野望を抱き、1894年(明治27年)4月10日神戸港からアサモア号で渡航した。上海寄港時には旅費が尽きたが、日清貿易研究所郡島忠次郎の助けでデッキパッセンジャーとしてバンコクに渡った。 到着後、現地にいた元軍人岩本千綱と意気投合し、バーン・サーラーデーンの農商務大臣スラサックモントリー(タイ語版)旧邸内の1棟を借りて暁鐘庵と号し、8月26日日暹協会を設立した。10月暹羅殖民会社理事、農業部主任に就任し、千綱が連れて来た日本人移民の耕作を監督したが、移民は高齢で土地も農業に適さず、失敗に終わった。 その後移民はワタッタナー金鉱山会社ブカヌン金鉱山(現ナコーンラーチャシーマー県ワンナムキアオ郡(タイ語版)ワンミー準郡ター・ワンサイ村)で働いたが、労働環境は過酷を極め、1895年(明治28年)9月助けに行った時には大半がマラリア等で死亡する惨事となっていた。 この後岩本千綱は第2次移民を募るため帰国したが、禹三郎はこれに参加せず、1895年(明治28年)8月イギリス国籍ポルトガル人デ・ソーザが怪しげな出資金を集めて設立した日暹銀行の融資で同月石橋商会を開店した。松野恭三郎を主任として日本麦酒、平野水等の卸売を行い、また同郷山田貞一、佐志雅雄と西洋洗濯や靴、家具製造等の事業を計画したが、経営は振るわず、10月下旬閉店し、1896年(明治29年)初め帰国した。
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