サツマイモ栽培を始めた野国総管
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 16:16 UTC 版)
「野國總管」の記事における「サツマイモ栽培を始めた野国総管」の解説
サツマイモ栽培を始めた野国総管(個人)の家系は代々野国村の百姓であったと考えられる。詳しい人となりは不明であるが、彼も野国村の生まれとされる。この野国総管の姓名については長らく不明とされてきたが、総姓世系図等で分析された結果、いくらか明らかになっている。係る系図の一世の項には「大宗藩初野國總管号松岩室号永屋」とあり、2005年現在、13代目まで「与那覇(ヨナハ)」として継承されている総管の位牌に「總管野國松岩名乗裕初言名總世健」という記述があることからの推定で、本件の野国総管の姓名は、童名でもある沖縄名で「与那覇 松(ヨナハ マチュー)」、大和名で「与那覇 裕初(よなは ゆうしょ)」、中国名(唐名)で「總 世健」と呼ばれていたのではないかという説である。なお、野国総管の妻の名は、戒名が「永屋」とあるところからの推定で沖縄名は「永」であったと考えられる。 農民が旱魃などで苦しむのを見てきた彼は、1605年(日本は慶長10年、中国は万暦33年)、明代中国の福州(現在の福建地方。福州市あたりか)に渡った際、現地の人物から蕃薯(ばんしょ。今で言うサツマイモ)を教えてもらい、鉢植えの苗を持って同年のうちに帰国して野国村で試作した。悪天候に左右されない蕃薯は土地によく根付いたことから、村の農民に広められ、これによって餓死など凶作による村人の災難は防がれた。また、琉球王統(第二尚氏王統)の人物である儀間村地頭・儀間真常は、野国総管が蕃薯の苗を持ち帰ったことを聞きつけ、野国総管から栽培法を学び、以後、琉球各地に広めた。
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