ケンブリッジの設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:17 UTC 版)
「トマス・ダドリー」の記事における「ケンブリッジの設立」の解説
1631年春、指導層はニュータウン(現在のケンブリッジのハーバード広場近く)に植民地の首都を設立することに合意し、測量を行い区画割りが行われた。ダドリー、サイモン・ブラッドストリート、その他の者達がそこに家を建てたが、ウィンスロップはボストンに家を建てることに決めたので、ダドリーは怒った。この決断はダドリーとウィンスロップの間に亀裂を生じさせ、1632年にはダドリーがその地位から辞任してイングランドに戻ることを考えるほどに重大なものになった。他の者が仲裁した後に、二人は和解し、ダドリーが辞意を引き下げた。ウィンスロップは「彼らが平和を保ち、愛と友情の中で良好な関係になった後のことだった」と報告していた。この論争の間、ダドリーの方もウィンスロップがその評議員会に相談することなく行った多くの行動について、総督としての権限を厳しく問うことがあった。ダドリーのウィンスロップとの食い違いは1636年1月にも表面化しており、ウィンスロップが司法判断を大目に見過ぎていたと、他の役人達が一連の告発を行ったときだった。 1632年、ダドリーは自費でニュータウンの周りに防御柵を立てて、1,000エーカー (4 km2) の土地を囲んだ。これは主に野生動物やインディアンの襲撃から守るためだった。その土地は1636年にケンブリッジと改名された。植民地はその地域の社会全てに課税することで、彼に賠償することに合意した。この必要性のために集められた集会が、北アメリカにおける真の代議制政府の最初の例となった。その議題について政府に忠告するために各町が2人ずつの代議員を選んだ。この原則は1634年に植民地全体を治めるために拡大され、この年にダドリーは初めて総督に選ばれ。その任期にあるときに、植民地は軍事を監督し、軍需物資を管理するための委員会を設立した。 1632年、フェルディナンド・ゴージズ卿が、以前のその領土に対する権利を取り戻そうとして、植民地の認証と統治の問題を国王チャールズ1世の枢密院に持ち上げたときに、植民地は法的な脅威の下に入った。ゴージズが挙げた告発に対して植民地の役人が回答書を起草したとき、ダドリーのみが、国王を「聖なる陛下」とよび、イングランド国教会の司教を「尊敬すべき司教」と呼ぶ言葉遣いに反対した。「権限開示令状」が1635年に発行され、認証をイングランドに戻すよう要求していたが、国王の財政的窮状のためにその実行が妨げられ、この問題はなし崩しになった。
※この「ケンブリッジの設立」の解説は、「トマス・ダドリー」の解説の一部です。
「ケンブリッジの設立」を含む「トマス・ダドリー」の記事については、「トマス・ダドリー」の概要を参照ください。
- ケンブリッジの設立のページへのリンク