クリミア・ハン国
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クリミア・ハン国(クリミア・ハンこく、クリム・ハン国とも。クリミア・タタール語: قرم خانلغى, ラテン文字転写: Qırım Hanlığı, キリル文字転写: Къырым Ханлыгъы, ウクライナ語: Кримське ханство, ロシア語: Крымское ханство、1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。
- ^ ハージー1世ギレイは、バシ・テムル(英: Bash Timurまたは英: Tash Timur)の子。Henry Hoyle Howorth, "History of the Mongols from the 9th to the 19th Century. Part 2. The So-Called Tartars of Russia and Central Asia. Division 1.", p.21, ISBN 9781402177729
- ^ G・コトシーヒン 『ピョートル前夜のロシア』彩流社、2003年、84頁。
- ^ “クリム・ハン国”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2023年4月2日閲覧。
- 1 クリミア・ハン国とは
- 2 クリミア・ハン国の概要
- 3 歴史
- 4 歴代君主
- 5 注釈
クリミア・ハン国
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「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」の記事における「クリミア・ハン国」の解説
劇中では主に「クリミア」と呼ばれる。 オスマン帝国の従属国で、スレイマンの母后ハフサの祖国である。ヒュッレムを誘拐したのは、このクリミア・ハン国である。
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クリミア・ハン国(1441年–1783年)
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「クリミアの歴史」の記事における「クリミア・ハン国(1441年–1783年)」の解説
詳細は「クリミア・ハン国」を参照 1395年にトクタミシュ・ハンがティムールに敗れて没落し、ジョチ・ウルスの分裂が進むと、クリミアにいたタタールの諸部族は、1441年にチンギス・カンの末裔(バトゥの弟トカ・テムルの子孫)であるハジ・ギレイをハンとしてクリミア・ハン国を形成した。都は当初クルク・イェル(英語版)に置かれ、16世紀初めにバフチサライへ移った。 クリミア・ハン国の支配圏は黒海北岸のステップ一帯に広がり、東はクバンから西はドニエストル川まで及んだ。しかし、彼らは半島南岸のジェノヴァの交易都市を支配下に置くことはできなかった。のちにハン国では内紛が起こり、クリミアの諸部族はオスマン帝国のメフメト2世に援軍を要請したため、1475年に大宰相ゲディク・アフメト・パシャが率いるオスマン軍がクリミア南部のジェノヴァ領諸都市を攻め落として支配下に置いた:78。 内紛に敗れてカッファ(現在のフェオドシヤ)に逃げ込みジェノヴァ人の捕虜になっていたハジ・ギレイの子メングリ・ギレイは、イスタンブールに連れ去られて捕虜となったが、のちにオスマン帝国への忠誠を誓って解放されて復位し、クリミア・ハン国はオスマン帝国の属国となった:78。それでもクリミア・ハン国はオスマン帝国から高度な自治権を認められており、自主的な統治を行った。ハン国支配下の部族民からなる騎兵はウクライナへの襲撃(英語版)を繰り返し、捕虜を奴隷としてオスマン帝国の市場に供給した:78。1450年から1586年にかけては86回、1600年から1647年にかけては70回の襲撃が記録されている:106。1570年代には、年間に2万人近い奴隷がカッファで取引されていた。
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