カルカルの戦いとは? わかりやすく解説

カルカルの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/04 14:44 UTC 版)

カルカルの戦い(Battle of Karkar(or Qarqar))は、紀元前853年シャルマネセル3世率いるアッシリア軍とシリア諸国の同盟軍との間で戦われた。古代オリエント史上有名な戦いの1つであり、この戦いの結果アッシリア軍は撃退され、その西方への拡大は一時頓挫した。


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  1. ^ アッカド語のムスリ(Musri)は通常エジプトと翻訳される。しかし、この戦いでのムスリは北シリア地方の王国であると考える者もいる。
  2. ^ 正確にはアマナ山のルホブの子、と記述されている。


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カルカルの戦い

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エジプト第22王朝」の記事における「カルカルの戦い」の解説

オソルコン2世時代もう一つ重要な事件アッシリアシリア侵攻である。当時アッシリア著し拡大期入っており、その王シャルマネセル3世は北シリア征服し南部シリアにも手を伸ばしつつあった。この事態対し当時シリア諸国ダマスカスイスラエルハマテ中心とした連合軍組織してアッシリア対応したが、エジプト軍もこの連合軍参加していたことがアッシリア記録残されている。 オソルコン2世がどの程度アッシリア脅威認識していたのか定かではないが、彼はアッシリアとの戦いにおいて主導権を握ることはなかった。アッシリアシリア地方連合軍紀元前853年、オロンテス河畔カルカル激突した(カルカルの戦い)が、この戦い参加したエジプト軍はわずか1000人であり、単位軍勢派遣しているシリア諸国の軍に比較して明らかに少ない。 ともかくもこの戦いでアッシリア撃退されシリア地方経由してエジプト攻撃される危険は一時的にせよ回避された。

※この「カルカルの戦い」の解説は、「エジプト第22王朝」の解説の一部です。
「カルカルの戦い」を含む「エジプト第22王朝」の記事については、「エジプト第22王朝」の概要を参照ください。

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