カニング派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/17 07:16 UTC 版)
「ウィリアム・ハスキソン」の記事における「カニング派」の解説
1827年4月に病身のリヴァプール伯爵の辞職で成立したカニング内閣にも通商長官として留任したが、カニングは首相就任からわずか4カ月で死去。ハスキソンはカニングに代わって庶民院院内総務に就任するとともにカニング派(英語版)の指導者となった。カニング内閣の後継としてゴドリッチ子爵内閣が成立するとはじめ通商庁長官として留任したが、まもなく陸軍・植民地大臣に転じた。カニングの意思を継ぐ自由主義者ハスキソンは、ゴドリッチ子爵内閣において、国王から派遣されてきた内閣のお目付け役であるトーリー党守旧派ジョン・チャールズ・ヘリス(英語版)蔵相と対立を深めた。この争いが原因でゴドリッチ子爵内閣は1828年1月に総辞職に陥った。 1828年1月に成立したウェリントン公爵内閣はトーリー党守旧派的内閣だったが、カニング派を閣僚に多く登用する条件でハスキソンも政権に留まった。しかし5月には腐敗選挙区削減問題で内相ピールと対立を深めた。これを不服としてハスキソン以下カニング派閣僚は一斉に辞職した。ただしこの際にハスキソンに従わずに政権に留まったカニング派議員もおり、ハスキソンに従うカニング派議員(以降便宜上ハスキソン派と呼ぶ)はこの時点では40人ほどになった。 さらにウィリアム4世の即位に伴う1830年6月の解散総選挙ではハスキソン派は11議席まで議席を落とした。この後ハスキソンはホイッグ党と手を組む決意をし、1830年9月15日のマンチェスター・リヴァプール間鉄道の開業式(ハスキソンはこの鉄道の実現に熱心に協力した人間だった)の席でホイッグ党首グレイ伯爵の側近ヘンリー・ブルームと会見する手はずを整えた。ところがこの式典の当日にハスキソンは鉄道に轢かれて事故死した。 この開通式の際、技師長のジョージ・スチーブンソンはまだ閉塞制度もない時代だったので「最重要来賓を乗せた第一編成用の線路(ハスキソンもここに乗っていた)」と「それ以外の7つの編成用の線路」を分け、最重要来賓の列車に他列車が追突しないようにしていたが、途中第一編成が給水のため停車する駅で最重要来賓客たちが勝手に降りて隣の線路の先まで歩いていくのまでは計算しておらず、そこでハスキソンはウェリントン公爵に呼び止められて彼の方に向かった際にそちら側の線路にロケット号の引く編成が入ってきた。当時の機関車にはまだ汽笛がなく旗で合図をしていたのでハスキソンは機関車に気が付くのが遅れたうえ、ブレーキも摩擦でかかるものは客車側にしかなく、機関車側で唯一操作できる動力逆転による制動も走った後では逆転ハンドルが熱くてとっさに握れないというような問題があったため、ブレーキが間に合わずハスキソンはそのままロケット号に轢かれ、これを見たジョージ・スチーブンソンは自分が操作していた第一編成から客車1両以外を切り離してハスキソンを乗せ、列車をマンチェスターまで全力で走らせたが助からなかった。 ホイッグ党上層部にはハスキソンへの不信感が強かったため、ハスキソンの死はむしろハスキソン派とホイッグの結合を加速させたという。ハスキソンの死後、ハスキソン派はメルバーン子爵やパーマストン子爵が指導したが、彼らは後にホイッグ党の首相となっている。
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