カニバリズムを巡って
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:21 UTC 版)
何人かの生存者は人肉食があったという説に反駁しているが、チャールズ・マクグラシャンは多数の生存者と40年間にわたって文通し、それが実際にあったとする回想を数多く記録している。関与を恥じて語りたがらない者もいたが、そのほかの者は最後は率直に語るようになった。マクグラシャンは1879年の著書『History of the Donner Party』では一部の陰鬱な情景をあえて省いた。たとえば死に際の子どもや幼児の苦しみや、ジョージア・ドナーによればマーフィー夫人が最後の子どもたちを第3次救助隊に連れていかれた際に絶望し、寝台に横たわって壁を向いていたことなどである。彼はまたアルダー河畔で起きた人肉食について一切書かなかった。マクグラシャンの本が出版された同じ年に、ジョージア・ドナーは彼に一部を明確化する手紙を送った。それによればアルダー河畔の両方のテントで人肉が調理されたが、彼女の記憶では(1846 - 1847年の冬に彼女は4歳だった)幼い子どもにだけ与えられた。「父は泣いていてその間中私たちを見ようとせず、私たち子どもは自分たちには何もできないと感じていた。ほかには何もなかったから」と述べている。彼女はまたある朝エリザベス・ドナー(ジェイコブの妻)がサミュエル・シューメイカー(25歳の御者)の腕を料理したと言ったのを覚えていた。エリザ・ドナー・ホートンは1911年に事件の記録を纏めているが、アルダー河畔での人肉食に言及していない。 アルダー河畔の野営地跡に関する考古学的な調査では、人肉食の有無について決定的な証拠は得られなかった。かまどで見つかった骨はいずれも人骨とは同定できなかった。ラリックによれば、料理に使われた骨だけが保存されたはずだが、そもそもドナー隊が人骨を料理に使う必要があったとは思えない。 エリザ・ファーナムが1856年にまとめたドナー隊の記録は、おもにマーガレット・ブリーンへの対面取材に基づいている。彼女の本ではジェイムス・リードと第2次救助隊がグレイブス家とブリーン家を雪穴の中に置き去りにしたあとのことが詳述されている。ファーナムによれば、アイザック・ドナー、フランクリン・グレイブス,Jr.、エリザベス・グレイブスの3人を食べようと提案したのは当時7歳のメアリ・ドナーだった。なぜならドナー家はアルダー河畔で既に死者を食べており、食べられた中にはメアリの父ジェイコブ・ドナーも含まれていたからである。マーガレット・ブリーンは彼女の一家は誰も死者を食べていないと主張しているが、クリスティン・ジョンソン、イーサン・ラリック、ジョセフ・キング(彼はブリーン家に同情的だった)らはこれを疑問視している。ブリーン家はすでに9日間絶食していたため、人肉に手を出さずに生き延びられたかどうか疑わしいからである。キングはファーナムがこの話をマーガレット・ブリーンとは無関係に書いたのではないかと指摘している。 H.A.ワイズが1847年に出版した資料によれば、ジャン・バチスト・トルドーは自らの英雄的行為を吹聴しつつ、ジェイコブ・ドナーを食べた体験をどぎつく描写し、赤ん坊を生で食べたとも語った。しかし後年トルドーがエリザ・ドナー・ホートンに会った際には、自分は誰も食べていないと言い、1891年に60歳でセントルイスの新聞に取材された際もそう繰り返した。かつての状況と、トルドーが最後にタムセン・ドナーを1人にした事実にもかかわらず、ホートンをはじめドナー家の子どもたちとトルドーは仲がよかった。作家のジョージ・スチュワートは、トルドーがワイズに語った内容と1884年にホートンに語った内容とでは前者の方が正確だと考えており、トルドーがドナー家を見捨てたと指摘している。一方、クリスティン・ジョンソンは、トルドーがワイズに話した内容を「若者にありがちな、注目を浴びて大人に一泡吹かせたいという心理」の顕れだとしており、年を取ってからは心境が変わってホートンを困らせないよう配慮したのだと述べている。歴史家のジョセフ・キングとジャック・スティードは、トルドーがドナー家を遺棄したとするスチュワートの見解を「潔癖主義にもほどがある」と批判している。なぜならドナー隊の参加者は全員が厳しい選択を強いられていたからである。イーサン・ラリックもこれに同調して次のように書いている。「(前略)輝かしい英雄的行為だのおぞましい悪業だのと言うより、ドナー隊は、英雄的でも悪人的でもない過酷な選択を重ねていく話なのだ」。
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