カッシウス条約 - 紀元前5世紀
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「ローマ・ヘルニキ戦争」の記事における「カッシウス条約 - 紀元前5世紀」の解説
紀元前5世紀の初めから、ローマとヘルニキの間で紛争が生じていた。 紀元前495年、ヘルニキはウォルスキと同盟してローマ領土に侵攻したが敗北した。 紀元前487年、ヘルニキは再度ローマと戦うが、執政官(コンスル)ガイウス・アクィッリウス・トゥスクスが指揮するローマ軍に敗れた。 翌紀元前486年、ヘルニキはローマと条約を締結する。ハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、その内容はカッシウス条約(レギッルス湖畔の戦いの後ローマとラティウム同盟の条約で、ローマの指導権を認めた)と同様のものであったという。しかし、ヘルニキがこの条約に加盟したのか、あるいは同様の内容の別の条約をローマと締結したのかは不明である。条約の内容に、ヘルニキが領土の2/3を割譲することが含まれていた。この土地(公有地)をローマとラティウム同盟市の間でどのように分配するかに関して議論が紛糾し、結果として三度執政官を務め、ラティウムとの条約交渉を行ったスプリウス・カッシウス・ウェケッリヌスが裁判にかけられ、死刑になるという事件が起こった。 カッシウス条約は詳細な運用は不明であるが、その全体的な目的は明確である。紀元前5世紀を通じて、ラティウムはアエクイとウォルスキの侵略、より大きな動きとしてはサベリア諸族(en)のアペニン山脈から平地部への移動に脅かされていた。紀元前5世紀前半には、連年のようにアエクイ、ウォルスキ、あるいはその双方との戦いが記録されている。古代の資料によれば、この連年の戦争は大規模な会戦ではなく、襲撃とそれに対する反撃が主であった。紀元前5世紀後半になると、ラティウム・ヘルニキ連合は、この侵略の波を押しとどめたようである。この時期になると、ローマの植民市の建設記録はいくつかあるが、アエクイとウォルスキとの戦争の記録は減ってくる。同時に、同盟を維持する必要が薄れたことを意味する。これは特にローマに言えることであり、紀元前396年にウェイイを占領した後は、明らかにラティウムで最も強力な都市となった。
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