オランダとスウェーデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:14 UTC 版)
「ペンシルベニア州の歴史」の記事における「オランダとスウェーデン」の解説
詳細は「ニュースウェーデン」を参照 デラウェア川水系一帯を領有権主張したのはイギリスであり、その根拠は1497年のジョン・カボット、および1614年と1615年のジョン・スミス船長などによる探検であった。デラウェアという名前は、1610年から1618年までバージニア植民地の知事であった第3代ディ・ラ・ワーレ男爵トマス・ウエストに因んだものだった。当時はこの一帯もバージニア植民地の一部と考えられていた。しかし、オランダは1610年のヘンリー・ハドソンの探検を元に自分達も領有権があると考え、オランダ西インド会社の後援によりこの土地を実際に占領した最初のヨーロッパ人となった。オランダ人は1624年にブリストルの向かいにあるデラウェア川の中の島バーリントン島に交易基地を建設し、1626年にはニュージャージーのグロースターにナッサウ砦を造った。ピーター・ミヌイットがこの頃のオランダ支配人であり、恐らくはバーリントン島でいくらかの時を過ごし、その地域に馴染んだと考えられる。 しかし、ミヌイットはオランダ西インド会社の支配人と不和になり、ニューネーデルラントから呼び戻されたのを機に、当時はヨーロッパの政治で大国であったスウェーデンの多くの友人と誼を通じた。スウェーデンはニュースウェーデン会社を作り、多くの話し合いの後の1638年、ミヌイットがスウェーデン国旗の下の集団を連れてデラウェア川地域に入った。現在のデラウェア州ウィルミントンにクリスティーナ砦を築き交易基地とした。ミヌイットはそこにはヨーロッパ人の開拓地が無かったと言って、デラウェア川の西岸の領有権を主張した。オランダ西インド会社とは異なり、スウェーデンはその交易基地に実際に開拓者を連れてきて植民地とする意図があった。 ミヌイットはその年に帰国中、ハリケーンに遭って水死したが、スウェーデン植民地は徐々に成長を続けた。1644年までにスウェーデン人とフィンランド人開拓者が、クリスティーナ砦からスクーカル川までのデラウェア川西岸に住んでいた。ニュースウェーデンの良く知られた知事、ヨハン・ビョルンソン・プリンツは、開拓地の中心に近い今日のティニカム・タウンシップにその住居を移した。 しかし、オランダはその地域の領有権を諦めることはなく、活発な軍事指導者であるピーター・ストイフェサントが総督になると、スウェーデンの開拓地を攻撃し、1655年にニューネーデルラント植民地に取り込んでしまった。しかしそれも長くは続かず、以前の領有権を主張するイギリスによってオランダは退去させられた。1664年、ヨーク公でイギリス王チャールズ2世の弟ジェームズは遠征隊を派遣して容易にオランダをデラウェア川とハドソン川から駆逐した。ヨーク公はこの地域全体の領主となった。
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