ニュースウェーデン
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ニュースウェーデン(典: Nya Sverige、芬: Uusi-Ruotsi、英: New Sweden)は、17世紀の一時期に、北アメリカ大西洋岸中部のデラウェア川沿いに造られたスウェーデンの小さな植民地である。その中心は、現在のデラウェア州ウィルミントンにあったクリスティーナ砦であり、範囲はデラウェア州、ニュージャージー州およびペンシルベニア州の一部を含んでいた。植民地は1638年3月29日に設立され、1655年9月15日にオランダのニューネーデルラントに組み込まれた。開拓者はスウェーデン人の他にフィンランド人やドイツ人も多く混じっていた。
- 1 ニュースウェーデンとは
- 2 ニュースウェーデンの概要
- 3 歴史
- 4 植民地総督
- 5 関連項目
ニュースウェーデン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 16:24 UTC 版)
「ニュージャージー州の歴史」の記事における「ニュースウェーデン」の解説
詳細は「ニュースウェーデン」を参照 オランダに加えて、ニュージャージー南西部には、17世紀半ばまでにスウェーデン人が入植した。ニュースウェーデンは1638年に設立され、ヨハン・ビョルンセン・プリンツ知事 (1643-1653)の時に最盛期を迎えた。プリンツに率いられた開拓者達は、デラウェア川の両岸、北はクリスティーナ砦まで拡がった。さらにデラウエア川の東岸、今日のセーラム近くにニュー・エルフスベリ砦を建設することで、植民地の軍事的また商業的な状況を改善した。この行動により、新世界への進出を強めていたイギリスやオランダから、デラウェア川を容易には奪われないようにした。スウェーデン人とフィンランド人の開拓者は、隣人であるオランダ人やレナペ族と概して平和的な付き合いをした。ニュースウェーデンの最後の知事ヨハン・クラッソン・ライジングの下で、スウェーデンはオランダのカシミア砦(現在のニューカッスル)を奪取した。ここはクリスティーナ砦にも近く、後にトリニティ砦と改称された。 この事件に怒ったストイフェサント知事は、報復のために翌年夏、デラウェア川に7隻の武装艦船と317名の兵士を送った。数的に負けていたスウェーデン守備兵は希望のないことを認識して降伏した。トリニティ砦が落ちた2週間後にクリスチーナ砦も落ちた。1655年オランダはこの地域を完全に掌握しニューネーデルラントに併呑した。
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ニュースウェーデン
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「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「ニュースウェーデン」の解説
詳細は「ニュースウェーデン」を参照 「ニュースウェーデン」 (スウェーデン語: Nya Sverige) は1638年から1655年までデラウェア川流域のスウェーデン植民地だった。現在のデラウェア州ウィルミントンにあったクリスティーナ砦を中心に、現在のデラウェア州、ニュージャージー州およびペンシルベニア州の一部を含んでいた。ピーター・ミヌイットが新しく作られたニュースウェーデン植民地の初代知事になった。ヨハン・ビョルンソン・プリンツ知事(在任1643年-1653年)の下で植民地は拡大し、デラウェア川の東岸、今日のニュージャージー州セイラム近くにニュー・エルフスベリ砦を、ティニカム島(今日のフィラデルフィア市の直ぐ南西)にニュー・ゴーテンベリ砦を建設した。オランダの総督ピーター・ストイフェサントが1655年夏遅くに軍隊を動かしてデラウェア川に向かい、即座にトリニティ砦とクリスティーナ砦を占領した。ニュースウェーデンは1655年9月にオランダ領ニューネーデルラントに組み入れられた。入植地自体は、その後もある程度の地方自治を続け、1664年10月にイングランドがニューネーデルラント植民地を征服するまで続き、1682年にこの地域がウィリアム・ペンによるペンシルベニア勅許地に含まれるまでは非公式に継続された。
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