イタリア王国時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:08 UTC 版)
ナポレオン・ボナパルトが台頭すると、ボローニャはチスパダーナ共和国の首都となり、続くチサルピナ共和国とイタリア王国時代には、ミラノに次ぐ第2の都市となった。ナポレオン没落後、ボローニャでは教皇庁支配が復活したが、1831年と1849年には、1860年まで市を支配したオーストリア帝国の駐留兵が一時的に追放されるほどの反乱が起こった。 1857年に教皇ピウス9世はボローニャを訪問したが、市は1859年6月12日にサルデーニャ王国への併合に賛成し、イタリア統一運動に合流した。新たな政治状況の下、ボローニャはその文化的重要性を高め、商業、産業、通信の重要拠点となっていった。人口は再び増え始め、20世紀初頭には新たに増えた人口に対処するために、古い市壁が一部を残して破壊された。 第二次世界大戦においてイタリアが連合国軍に降伏し、イタリア北部がイタリア社会共和国とドイツ軍の影響下に入った1943年以降、ボローニャはドイツ軍の重要な輸送拠点だった。 その結果、1944年1月29日にアルキジンナジオ館を襲った空撃によって、バルトロメオ・チェージの手によって書かれたフレスコ画の大部分は失われ、1945年4月21日のアメリカ陸軍第34歩兵師団によるボローニャ攻略は、ポー川谷を開放し、ドイツ軍の北イタリア防衛線の崩壊につながった。
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