アメリカ優生学協会時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 09:05 UTC 版)
「アメリカ生物人口学・社会生物学協会」の記事における「アメリカ優生学協会時代」の解説
その起源は1906年に非公式に設立された優生学教育協会まで遡る事が出来るが 、協会としての設立は、1922年であり、優生学に関する研究および公教育を推進する団体であった。 マディソン・グラント、アーヴィング・フィッシャー、 ハリー・ハミルトン・ローリン、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーン、ヘンリー・クランプトンらが共同で設立した 。20世紀におけるアメリカの優性政策や最高裁判決に大きな影響を与えたとされ、産児制限 や人工妊娠中絶など以後の政策にも影響を与えた。 1907年、インディアナ州で最初の強制不妊法(断種法とも言われる)が制定されて以降、30以上の州がこれに続いた 。同協会の会長だったハリー・ラフリンは、1927年に、それら州法の合憲性を連邦最高裁判所が支持した「バック対ベル」判決において主要な役割を果たしたとされる 。これら一連の強制不妊法の対象者には、視覚障碍者・聴覚障碍者・精神疾患を持つ者、知的発達障害などが含まれ、犯罪者に対しても適用された。アフリカ系アメリカ人、ヒスパニック、ネイティブ・アメリカンの間で強制不妊の実施率は特に高かった。 また、優生学者達の関心は移民にも向けられた。1924年には、排日移民法(正確には移民規制法)が制定され、南・東欧系移民の数を制限するとともに、日本人や中国人の移民は入国が禁止されている。 最盛期であった1930年代には、1260人の会員がいたとされるが、ナチス政権下で、優生学と安楽死・人種主義が結びつけられた政策が実行され、大きな倫理的問題を引き起こし、戦後、世界的に優生学がタブーとなり、これを機に協会も、また衰退を始めた。 20世紀初頭には、マーガレット・サンガーらによるアメリカ産児制限連盟を支持し、彼女もまた優生学の唱道者であった。戦後、優生学が決定的にマイナス・イメージに転化したことで、袂を分かったが、同連盟はプランド・ペアレントフッドという名称で。現在も女性の性と出産に関する健康と権利に関するサービスや啓蒙活動を行っている。また、1971年、女性の人工中絶の権利を認めたロー対ウェイド判決においても大きな役割を果たした。同判決発表後、アメリカ優生学協会は、社会生物学協会と改名した。オズボーンは、優生学のラベルが、避妊や中絶といった家族計画の発展を妨げる事に繋がる事が理由と述べた。
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