アメリカの中部太平洋での反攻開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:09 UTC 版)
「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の記事における「アメリカの中部太平洋での反攻開始」の解説
1943年にアリューシャン方面の戦い、ソロモン諸島の戦いで勝利を収めたアメリカ海軍は、米国統合戦略委員会とともに中部太平洋を西(日本の方角)に向かって進撃することを計画した。当初、この計画に南太平洋最高司令官であるダグラス・マッカーサーを中心としたアメリカ陸軍は反対していたのだが、最終的にはアメリカ統合参謀本部の決定により中部太平洋への侵攻作戦が行われることになった。8月21日から8月24日の間にはカナダのケベックでアメリカ合衆国、イギリス、カナダ、フランスの四箇国が会談した。このケベック会談により中部太平洋への侵攻作戦の具体案が決定し、米軍の攻撃の最初の矛先がギルバート諸島のマキン、タラワ、アベママに向けられることになった。 守勢に立たされた日本軍は、戦線を縮小して防衛態勢の強化を図る戦略を採り、1943年8月に大本営で絶対国防圏を設定した。同年9月の南鳥島空襲は特に日本軍に衝撃を与え、第52師団のトラック島行きなど陸軍部隊の大量派遣が決まり、逆上陸作戦用として甲支隊がポナペ島に待機した。マーシャル諸島やカロリン諸島東部は絶対国防圏外とされたが、日本海軍はマーシャル諸島海域での艦隊決戦構想に固執した。連合艦隊は、マーシャル方面への敵襲に備え、基地航空部隊や機動部隊などの総力を挙げた共同攻撃で撃退するという作戦計画「Z作戦」を立案していた。しかしながら、9月と10月の2度に渡るマーシャル方面への艦隊出撃(いずれも空振り)のため、前進基地トラック島の備蓄燃料が不足し、大規模な艦隊の行動が困難となってしまった。さらに、ソロモン諸島方面での「ろ号作戦」で空母搭載機が大打撃を受けてしまい、計画通りの迎撃は不可能な状況であった。
※この「アメリカの中部太平洋での反攻開始」の解説は、「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の解説の一部です。
「アメリカの中部太平洋での反攻開始」を含む「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の記事については、「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」の概要を参照ください。
- アメリカの中部太平洋での反攻開始のページへのリンク