アフマドからイヴァン3世に送られた書簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 08:30 UTC 版)
「ウグラ河畔の対峙」の記事における「アフマドからイヴァン3世に送られた書簡」の解説
ウグラ河畔からの撤退後、当初の目標を達成できなかったアフマド・ハンは体面を保つためイヴァン3世に書簡を送った。この書簡はロシア語訳されたものが記録されており、翻訳されたものとはいえタタール人(モンゴル人)自身の世界観が窺える貴重な史料としてジョチ・ウルス史研究者より注目されている。 高き山より、暗き森より、甘き水より、広き平原より。イヴァンへのアフマトの言葉。四の地の果てより、十二の沿岸地方より、七十のオルダより、大オルダより。…中略…そなたにとって、余はサイン帝(=バトゥ)以来(代々)剣の刃先を〔ルーシに対して)振るう君主である。そなたは余のために四十日のうちに税を徴収するがよい。六万アルトゥン、春に二万、秋に六万アルトゥン[を徴収するがよい)。自身にバトゥの印を帯び、帽子の天辺を窪ませて歩むがよい。そなたは不恰好な雑草なのだから。…中略… そなたはダニヤル皇子をそこから引き降ろしなさい。もし引き降ろさなければ、余が彼を探し、そなたのために見つけてやろう。いまや余は岸辺から去ることにする。なぜなら、余のもとには衣服のない人々や馬衣のない馬がいるからである(ウグラ川からの撤退)。真冬の九〇日が過ぎ、余は再びそなたのもとに向かい、そなたは余のもとで濁った水を飲むだろう。 — アフマトからイヴァン·ヴァシーリエヴィチ大公への勅許状または書簡 この書簡の内容は大きく(1)アフマドのクリミア・ハン国侵攻、(2)40日以内の税の徴収と自らへの服属、(3)カシモフ・ハン国のダーニヤール廃位の要求、(4)ウグラ河畔の対峙について、に分かれる。なお、この書簡でアフマド・ハンがモスクワに要求した14万アルトゥン(=約4200ルーブル)はかつてジョチ・ウルスが要求していた貢納額に比べるとはるかに少なく(例えば、トクタミシュは1382年に約8万5千ルーブルを徴収していた)、ジョチ・ウルス=大オルダの威信低下が窺える。
※この「アフマドからイヴァン3世に送られた書簡」の解説は、「ウグラ河畔の対峙」の解説の一部です。
「アフマドからイヴァン3世に送られた書簡」を含む「ウグラ河畔の対峙」の記事については、「ウグラ河畔の対峙」の概要を参照ください。
- アフマドからイヴァン3世に送られた書簡のページへのリンク