アカディアをめぐる争い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 14:18 UTC 版)
「ポートロワイヤルの戦い (1710年)」の記事における「アカディアをめぐる争い」の解説
ポートロワイヤルは、フランス人がカナダに初めて入植を始めた1604年ごろから、アカディア・フランス入植地の首都であり、その結果、18世紀には、イングランドとフランスの入植者との間での争いの舞台となった。1613年にはサムエル・アーゴール率いるイングランド軍の襲撃により破壊されたが、結局再建された。1690年には、マサチューセッツ湾植民地により、ポートロワイヤルを奪われたものの、ライスワイク条約でフランスに返還された。 1702年のスペイン継承戦争の勃発で、両国の入植者たちは、再び戦闘への準備を始めた。アカディアの総督であるジャック=フランソワ・ド・モンベトン・ド・ブロイヤンは、戦争が起きるのを見越して、1701年に、石と土の要塞を築きはじめ、1704年には、その要塞はおおかた完成していた。1704年2月の、フランスによるマサチューセッツ辺境のディアフィールド奇襲が起き、ボストンのイギリス系入植民は、その年の5月にアカディア襲撃を計画した。ベンジャミン・チャーチに率いられたマサチューセッツの入植者たちは、アカディアのグランプレと他の町をも襲撃した。チャーチが、アカディアへの襲撃をしたかどうかについて、イングランドとフランスの話は食い違った。チャーチ自身の説明によれば、アカディアの港に停泊してから、襲撃を考えたが、結局は中止を決めたと述べた。フランス側は、小さな襲撃があったと述べた。 1706年に、ダニエル・オージェ・ド・スーベルカスがアカディアの総督になった。スーベルカスはイングランドに対して攻撃的であり、先住民の、ニューイングランドへの襲撃を奨励した。また、ポートロワイヤルを拠点に、イングランド植民地への輸送船を私掠することも勧めた。私掠はかなりの効果を上げた。グランドバンクのイングランドの漁船団は、1702年から1707年までの間に80パーセントも減った。そして、沿岸部のイングランドの入植地は襲撃された。 ボストンのイングランド商人は、ポートロワイヤルと長く取引があり、うち一部は、戦争が起こった後も、違法に活動を続けていた 。しかし、交易活動が戦争により痛手を受け、他の商人たちが違法行動に声を上げ始め、フランスと先住民の襲撃に手を打てない当局に対して暴動が発生した。マサチューセッツ湾入植地の総督であるジョセフ・ダドリーは、イギリス本国に、支援を何度も要求したが、その支援は本国には何ら見返りのないものだった。ダドレーはついに、違法商業活動の共犯という非難を受け流すため、自主的に行動を起こすことにした。1707年の春、ダドレーはポートロワイヤルへの遠征隊を組織した。ポートロワイヤルの奪還目的の遠征で、数の上では優勢だったが、遠征も、非難をかわすことも失敗に終わった。その理由はさまざまである。
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