アカディアの軍事支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:21 UTC 版)
「ジョン・レバレット」の記事における「アカディアの軍事支配」の解説
1651年、イングランドとオランダが戦争に突入した(英蘭戦争)。この報せが新世界に届いたのは1652年であり、ニューイングランドのイングランド植民地には、ニューアムステルダムのオランダが地域のインディアン全てにイングランド植民地に対する戦争を仕掛けるよう唆しているという噂が流れた。レバレットとロバート・セジウィックは二人とも、もしオランダが競争相手として排除されればその交易については大きな利益となると考え、ニューアムステルダムに対して軍事行動を行うようロビー活動と行った。ただしサイモン・ブラッドストリートのような宗教的に中庸な者はそれに反対した。ニューアムステルダムの総督ピーター・ストイフェサントがニューイングランド植民地の代表団をニューアムステルダムに招き、事態を検討させた。レバレットは1653年に派遣されたコミッショナーの1人であり、そこにいる間に植民地の防衛について注意深いを発言をしていた。ニューヘイブン植民地はオリバー・クロムウェルのイングランド共和国政府に、オランダからの脅威に対する支援を請願した。これをレバレットが支持し、1653年にセジウィックと共にイングランドに行って、戦争に向けた植民地の立場について圧力を掛けた。 クロムウェルはセジウィックにニューイングランド海岸の軍事指揮官としての地位に任命し、セジウィックとレバレットに幾隻かの船と兵隊を付けて派遣し、オランダに対する戦争を起こさせることにした。この船隊は、レバレットが指揮するニューイングランド人500名によって補強されることになっていた。1654年にニューイングランドで軍隊が立ち上げられたときまでに、イングランドとオランダの間に和平が結ばれることになった。セジウィックはその任官を受けていた利点を生かし、オランダの代わりに隣接するアカディアのフランスに対抗することにした。アカディはイングランドの船舶を餌食にしている私掠船の母港だった。セジウィックは1654年7月に、アカディアの主要港であるポートロイヤルとペンタゴート砦を占領した。セジウィックはそこの軍事指揮をレバレットに任せた。レバレットはノバスコシアを3年間統治し、1657年5月に指揮権をトマス・テンプル卿に渡した。この期間、レバレットとセジウィックは事実上フランス領アカディアの貿易を独占して利益を出し、植民地の中にはレバレットのことを搾取的日和見主義者と見なす者も出てきた。レバレットは占領のための費用の大半を自費で賄っており、その代償をクロムウェルの政府に請願した。クロムウェルは支払いを承認したが、植民地がレバレットの財政を監査することを条件としており、それが行われることは無かった。レバレットは1660年の王政復古後も求償の請願を続けた。
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