アウディでのツーリングカー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:43 UTC 版)
「フランク・ビエラ」の記事における「アウディでのツーリングカー」の解説
1990年にビエラはアウディに移籍。1991年にタイトルを獲得した。1992年の半ばにアウディはDTMを去る事になるがビエラはアウディに残留した。 ヨーロッパの他のシリーズで2リットルのクラス2(スーパーツーリング)ルールが台頭するが、その後数シーズンにわたって様々なヨーロッパのツーリングカーシリーズに参加した。アウディ・80をドライブして1993年にはフランスのスーパーツーリング選手権のタイトルを獲得。彼は唯一の非フランス人ドライバーチャンピオンである。アウディは前年度もマーク・サウドがタイトルを獲得した為、このレースで2連覇を達成した。 1995年以降は新しいマシンであるアウディ・A4 クワトロを手に入れ、ポールリカールでのツーリングカー・ワールドカップやマカオ・ギアレースなどの国際ツーリングカーイベントで優勝し、1990年代を代表するツーリングカーレーサーの1人となった。 ビエラはこの間、1994年と1995年に母国ドイツでドイツ・スーパーツーリング選手権 (STWカップ)を主戦場とした。しかし、両シーズンとも前半はポイントリーダーをキープしたが、それぞれBMWドライバーのジョニー・チェコットとヨアヒム・ヴィンケルホックに逆転を許し、タイトル獲得はならなかった。また、1995年のSTWカップ終盤のアヴスでの第2レースでは、マシントラブルによりスピンしてコース中央に停止したキース・オドールのマシンを避けきれず、衝突する事故を起こしてしまう。衝突した部分が運転席側のドア部分だった為、オドールはこの事故で致命傷を負い翌晩亡くなった。 1996年、アウディはイギリスツーリングカー選手権 (BTCC)にも参戦を開始することを決め、ビエラはBTCCに移籍した。この年圧倒的なレース運びでチームメイトのジョン・ビントクリフと共にアウディチームは選手権を席巻。全26レース中11位となったシルバーストーンでの第7戦と失格となった第12戦スネッタートンを除く24戦でビエラはポイントを獲得できる10位以内に入っている。 しかし、その速さからBTCCの主催者から疑問符を突き付けられ、翌年はハンディを背負い苦しんだ。 1996年のアウディの優位性により、BTCCの主催者は1997年のシーズンで、すべての4輪駆動車にバラスト重量の「ペナルティ」を課した。 アウディはペナルティでかなり不自由な状態であったが、重量のペナルティはシーズンの半ばで半分になり、アラン・メニュに次ぐシリーズ2位でビエラはこの年も5勝し、チームメイトのビントクリフも2勝を挙げている。 1998年シーズンはSTWカップに戻ったが、これまでの好調から一転。アウディは苦戦を強いられる事になる。マシンをこれまでの4WDのA4クワトロからFFで再構成されたA4に置き換えられたが、BMWやプジョーなどのライバルに対して優位性もなく、ビエラはこの年過去ワーストのランキングで14位となる。チームメイトでSTWカップのタイトルを1996年に獲得した実績を持つエマニュエル・ピロも同じくシリーズ15位と低迷した。
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