あっという間に10年の歳月を忍んだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 10:20 UTC 版)
「賈英華」の記事における「あっという間に10年の歳月を忍んだ。」の解説
周恩来総理亡き後、李淑賢は時に総理が生前溥儀に対し気遣たことを語り、賈英華はこのために幾度と無くインタビューを行った。1980年、本編の文章は「人民日報、戦地」と「新華文摘」等のメディア上に公開され、これは双方が初めて共同合作を行って調印をして発表した文章である。 その後、賈英華と李淑賢編集部「社会科学戦線」雑誌編集部責任者周雷の誘いにより、「愛新覚羅溥儀最後の人生」の執筆に取り掛かった。賈英華は何件かの医院に通って、溥儀のカルテを取り出し、関連する内容書き写し、加えて文章の概要を作成し、インタビューを通じて手がかりを探り、計五万字ほど執筆した。しかしながら其の当事、中国東北地方のとある雑誌と取材を行った際にその記者に「原稿を持って行かれ」、彼が自分の名義で単独発表を行った。数年後双方は裁判所で争うこととなった。 その記者は賈英華の前で、彼はたかが中学一年生の文化水準しかなく、読み書きする能力は持ち合わせていないと言われたことがあった。賈英華の心に深い傷を負った、その出来事が「後半生」を執筆する決心に至った。その後の十年間、賈英華はかなりの努力を積み重ねて史料集めに没頭した。彼は前後300数名もの溥儀の関係者とインタビューを行い、膨大な量の一次史料を収集した。北は長春、南は広東、東は蓬莱、しかも訪英期間中は、大英図書館で莊士敦の史料を調べた。 其の当時賈英華は八王墳の北京火力発電所に勤めており、毎週一日しか休日がなく、彼は夜と全ての国定休暇の時間をインタビューに費やした。十年間北京城を走り回り、十年間映画を見ず、しかも自宅にはテレビを購入していないといった生活を送っていた。彼も又ハネムーン旅行で河北に赴いた機会を利用して山東へインタビューしたものだった。最も忘れづらかったのは蔡鍔の息子蔡端のインタビューであり、相手を貶す口調で、年老いた私が聞く所によると賈英華の学歴は中学一年生の水準しかなく、ただの火力発電所の職人に過ぎない、「文史館には既に本を執筆するものがおり、あなた一人で、本職に専念すればいいのではないか、なんで溥儀の研究を行うのであろうか。」 賈英華は蔡端を前後三回訪問した経緯があったが、先方は夫人が病に患っていることを口実に、門を堅く閉めたまま面会を拒むのであった。賈英華は「私には一つ気にかけることがあり、あなたと溥儀は同じ執務室にいたことがあったでしょうか?」この問題は過去においてずっと議論になっており、ある者は確かにそういうことがあったとか、又ある者は、このような事はなかったと、蔡端はたった一文字「いました」とだけ返答したのだった。三回にもわたる根気強い訪問インタビューは結局失敗に終わったが、たった一言の返答だけでどれだけの歴史真偽の問題を解決したものか。
※この「あっという間に10年の歳月を忍んだ。」の解説は、「賈英華」の解説の一部です。
「あっという間に10年の歳月を忍んだ。」を含む「賈英華」の記事については、「賈英華」の概要を参照ください。
- あっという間に10年の歳月を忍んだ。のページへのリンク