『スペースウォー!』からアタリ時代
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「ノーラン・ブッシュネル」の記事における「『スペースウォー!』からアタリ時代」の解説
※各記事の詳細はいずれもそのリンク先の項目を参照。 1961年にユタ州立大学に入学。その後、ユタ州立大学からユタ大学工学部に転入した。当時はコンピューターを勉強するには電気工学科しかなかったので専攻に選び、プログラムを学んだ。研究室で『スペースウォー!』の魅力を知り、遊園地に設置することを考えたが、1台12万ドルはかかることがわかり断念したが、いつか実現しようと心に誓った。当時、ブッシュネル自身でも○×ゲームや、簡単な追っかけゲーム『キツネとガチョウ』を作っている。 1965年にユタ大学を卒業し、卒業後はアミューズメントの仕事に就こうと、ディズニー関係の会社に就職するがうまく行かず、世界初のテープレコーダー会社であるアンペックス社に転職、デジタルレコーダーシステムの業務に関わったが、このアンペックス社には、後にアタリで共に仕事をする仲間が多数在籍していた。この時、既に先妻ポーラと結婚し、娘を2人設けた。娘達は『コンピュータースペース』を開発する時に、次女の部屋が開発専用の部屋に変えられ、とばっちりを受ける事になる。 1970年に電子部品の値段が安くなったのを見るや、『スペースウォー!』のアーケードゲーム版『コンピュータースペース』の開発に取り掛かる。機械ゲームメーカーのナッチング・アソシエーツとライセンス契約を結ぶとともにテッド・ダフネイとともに同社に移籍した。1971年11月、コンピュータースペースを1,500台製作して発売したが、操作が難しくて人気が出ず、数十台の売り上げにとどまった。 これで諦めなかったブッシュネルは退職して、1972年にアタリを創業する。社名は囲碁用語で相手の陣地を奪い取る「アタリ」に由来する。なお、当初は惑星直列という意味の「シジギ(Syzygy)」にしようとしたが、すでにその名前で法人登記されていたため止めた。アラン・アルコーンを雇って、ゲーム史上初のヒット作『ポン』を開発・発売した、一気にコンピューターゲームを世に浸透させ、続いて『ホーム・ポン』(1974年)、『ブレイクアウト』(ブロックくずし、1976年)等の大ヒットゲームを生み出し、わずか数年で大企業に成長させた。 その後は家庭用ゲーム機「Atari 2600」等を開発しようとしたが、資金難に陥る。そこで1974年にアタリの株の半分以上をワーナー・コミュニケーションズに売り、経営参加を認めた。経営方針が合わず、1976年にアタリの全株をワーナー・コミュニケーションズに2800万ドルで売却した。これまでにも『ポン』『ブレイクアウト』で儲けていたのが、この売却でさらに1300万ドルを得て、億万長者となった。だがワーナーとはその後、経営方針の違いで大きく衝突、1978年に解任、アタリから退いた。 ワーナー側からすれば2年続けた赤字に、株を売却した資金で浮わついてしまったブッシュネルを見切ったとしている。ジャック・ホルツマンはワーナーの買収後にアタリの取締役になったが、エレクトラレコードを23年続けたソフト産業の玄人から見て、アタリは商品管理や人気ソフトの陳腐化までの読みが甘く馬鹿だったと証言している。
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