「阿蘇」時代
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「阿蘇 (装甲巡洋艦)」の記事における「「阿蘇」時代」の解説
1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞のロシア軍は降伏。一部資料によると、バヤーンはロシア海軍により爆破された。5月25日、日本海軍は本艦の浮揚作業に着手する。旅順攻囲戦で沈没した戦利艦各艦の中で、最初に浮揚作業に着手した艦艇だったという。6月24日、浮揚成功。8月22日、バヤーンは戦利艦として日本艦籍に編入される。軍艦阿蘇と改名。舞鶴鎮守府籍。阿蘇は戦艦鎮遠に曳航され、駆逐艦霞(護衛)と共に内地へ向かうことになった。8月23日、3隻(阿蘇、鎮遠、霞)は旅順(大連)を出発する。8月27日附で、1 等巡洋艦に類別。8月28日、3隻(阿蘇、鎮遠、霞)は舞鶴に到着した。阿蘇は1908年(明治41年)まで改造修理を行う。大修理が必要だったため、横浜沖の凱旋観艦式には参列できなかった。 1909年(明治42年)から1911年(明治44年)まで、練習艦隊で少尉候補生の遠洋航海に従事。阿蘇と宗谷(旧ヴァリャーグ)は練習艦として活躍した。第一次世界大戦中は、日本近海の哨戒に当たる。 同時期、日本海軍は機雷敷設艦に改造予定(高千穂は改造済)の浪速型防護巡洋艦2隻(浪速、高千穂)を相次いで喪失したため、旧式装甲巡洋艦の敷設艦改造に順次着手。「津軽」(大正4年、四号機雷400個)、続いて「阿蘇」(大正6年、五号機雷420個)が改造される。1920年(大正9年)4月1日、艦艇類別等級の改正。3隻(阿蘇、津軽、勝力《新造艦》)は敷設艦に類別変更。主砲塔が撤去される。1922年(大正11年)のシベリア出兵に際しては、沿海州海域に出動した。 1931年(昭和6年)4月1日、除籍。阿蘇は廃艦第4号と仮称される。日本海軍は敷設艦2隻(阿蘇、常磐)の代艦としてロンドン軍縮条約により新型敷設艦を建造することになり、阿蘇代艦として沖島(2代目)が建造された(沖島は1934年9月27日起工、1935年11月15日進水、1936年9月30日竣工)。
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