「海鷹」曳航
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1945年(昭和20年)春頃、「鳳翔」が予備艦となって呉港に繋留された事に伴い、「夕風」は別府方面へ異動となった。新たな任務は空母「海鷹」と共に、地上発進の航空特別攻撃隊や、水中特攻兵器「回天」(大分県大神にあった回天基地所属)の標的艦訓練であった。7月24日、別府湾内で空襲を受け、無傷で回避したものの、山口県の室津港へ退避することにした。しかし別府湾を出た直後の夕刻(16時30分頃)、海鷹は艦尾に触雷、航行不能となった。 このままでは翌日の空襲で撃沈必至であったため、両艦艦長相談の上、ひとまず海岸まで曳航し、坐洲させることとなった。とはいえ、基準排水量1200トン程の駆逐艦が同量14000トン程もある空母を曳航するのは困難の極みであった。曳索は海鷹の備品直径28mmワイヤーを使用、これを夕風の一番砲塔に巻きつけ、さらに海鷹の錨鎖も海中に降ろして錘とする等ワイヤが緊張しないよう工夫し、ようやく曳航が始まったのは22時頃であったという。速度も2ノット程しか出せなかったが、幸い海も風も凪いでいて、曳航中にワイヤが切れる事はなかった。しかし、一番砲塔基部で油漏れが発生し、かなりの緊張を強いられた。夜半、空襲を受けたが無事切り抜け、翌朝8時頃、別府湾北奥の日出海岸(日出町)に到着した。 海鷹を出来る限り海岸に近づけた後は惰性で坐洲させるべく、曳航したまま海岸に接近した。その為ワイヤを切り離した際、負荷から解放されて急加速しあわや座礁しかけたが、回避に成功し事無きを得た。スクリューが海底の泥を巻き上げるほどの浅瀬まで接近しており、危機一髪であった。その後夕風は艦首部に防舷物をぶ厚く取り付け、不十分な位置で停止した海鷹の艦首と艦尾を海岸に向けて交互に押し、ようやく坐洲に成功した。 全ての作業を終えた夕風が別府港の錨地に帰ったのは、25日昼頃であった。なお、これは日本海軍における、駆逐艦による空母曳航唯一の成功例である。
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