「ふくや」創業、味の明太子の開発
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「川原俊夫」の記事における「「ふくや」創業、味の明太子の開発」の解説
引き揚げ後、ひとまず福岡県糸島郡北崎村に落ち着いた川原一家は兄などと共に千代町に居を構え、朝鮮時代の財産を元手に天神町市場(現在は福岡ビルが建っている)に数件の店を出して海産物などを販売していた。1948年(昭和23年)に川原一家は中洲市場へ移住し、ここで「ふくや」を開業した。当時のふくやは主に店舗向けに食料品を売る卸商店であった。中でも業務用の中華料理食材に強く、「鳴海屋」「トーホー」と共に「福岡の三大食品卸商店」と称された。 そんな中、商品を卸す以外に目玉になるオリジナル商品を開発しようとの考えから、夫婦は若い頃に釜山で食べた明太を作ろうと考え開発に乗り出す。1949年(昭和24年)に第1号の明太子が店頭に並んだ。しかし味を出すのは容易ではなく、店でも全く売れなかったことから、当初は従業員からも「店主の道楽」という声もあったという。結局、明太子が完成するには十年近くの歳月を要し、10周年を迎えた1957年(昭和32年)に「味の明太子」が発売された。 この頃から辛子明太子は近所の人々に少しずつ広がり始め、小料理屋で出されるようになるとサラリーマンなどを通じて県外にも評判が広まっていった。1965年(昭和40年)には大阪の政財界で評判となり、大阪のキャバレーから大量に注文を受け、2トントラックに明太子を満載して運ぶといった出来事もあった。1975年(昭和50年)に山陽新幹線の岡山―博多間が開通すると一気に全国へ広がった。 川原の最大の功績は博多式の辛子明太子を開発し、明太子産業を博多に根付かせた事であるといえる。明太子そのものはもともと朝鮮の食品であるが、調味液に漬け込む形式の新たな辛子明太子を開発し、博多の名産品として普及させたのは川原の功績である。また、川原は望むものには誰にでも製法を教えた(後述)こともあり、多くの明太子業者が生まれ、博多で明太子産業が発展することとなった。
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