「ふくや」創業、味の明太子の開発とは? わかりやすく解説

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「ふくや」創業、味の明太子の開発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/04 15:00 UTC 版)

川原俊夫」の記事における「「ふくや」創業、味の明太子の開発」の解説

引き揚げ後ひとまず福岡県糸島郡北崎村落ち着いた川原一家兄なと共に千代町に居を構え朝鮮時代財産元手天神町市場(現在は福岡ビル建っている)に数件の店を出して海産物などを販売していた。1948年昭和23年)に川原一家中洲市場移住し、ここで「ふくや」を開業した当時のふくやは主に店舗向けに食料品を売る卸商であった中でも業務用中華料理食材強く、「鳴海屋」「トーホーと共に福岡三大食品卸商店」と称された。 そんな中商品卸す以外に目玉になるオリジナル商品開発しようとの考えから、夫婦若い頃釜山食べた明太作ろう考え開発乗り出す1949年昭和24年)に第1号明太子店頭並んだ。しかし味を出すのは容易ではなく、店でも全く売れなかったことから、当初従業員からも「店主道楽」という声もあったという。結局明太子完成するには十年近く歳月要し10周年迎えた1957年昭和32年)に「味の明太子」が発売された。 この頃から辛子明太子近所の人々少しずつ広がり始め小料理屋出されるうになるサラリーマンなどを通じて県外にも評判広まっていった。1965年昭和40年)には大阪政財界評判となり、大阪キャバレーから大量に注文を受け、2トントラックに明太子満載して運ぶといった出来事もあった。1975年昭和50年)に山陽新幹線岡山博多間が開通する一気全国広がった川原最大功績博多式の辛子明太子開発し明太子産業博多根付かせた事であるといえる明太子そのものはもともと朝鮮食品であるが、調味液漬け込む形式新たな辛子明太子開発し博多名産品として普及させたのは川原功績である。また、川原は望むものには誰にでも製法教えた後述)こともあり、多く明太子業者生まれ博多明太子産業発展することとなった

※この「「ふくや」創業、味の明太子の開発」の解説は、「川原俊夫」の解説の一部です。
「「ふくや」創業、味の明太子の開発」を含む「川原俊夫」の記事については、「川原俊夫」の概要を参照ください。

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